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教育心理学⑨滝川『子どものための精神医学』(2017)

こんにちは!Freewillトータルエデュケーションの井口です!


今回は滝川一廣『子どものための精神医学』をとりあげます。


【概要】

 

滝川一廣は愛知県出身の児童精神医学者で、

現代の児童精神医学の権威となっている方です。

木村敏や中井久夫といった日本の精神医学の第一人者たちの助手をつとめたらしく、

日本の精神医学の本流を歩いてきた方なのだと思います。


その滝川が「素手で読める」をスローガンにかかげて

一般向けに書いた実践書が本書です。


「1クラスの6.5%は発達障害」とも言われる現在(この数え方自体問われ得ますが)、

しっかり知っておかねばと思い手に取りました。


本書の帯文には中井久夫の

「僕が若い頃だったら、さっそく買って読んだろうなぁ」という言葉が載っており、

この本への期待も高まります。


1. 精神障害の捉え方

 

まず本書は「精神障害」をどう捉えるか、という話から始まります。

児童精神医学の前に、精神医学全体を見ておくためです。


①<こころ>の捉え方

精神障害を考えるときに、そもそも<こころ>とは何かを考える必要があります。


一読するとよくわかりませんが、身体障害との対比で考えてみます。

精神障害ではなく身体障害の場合だと、<からだ>とは何かを考える必要がないことが多いです。

例えば身体障害の一つである視覚障害の場合、眼球という物質の中の、角膜や網膜や房水といった物質に異常があるために、視力や視野に障害が発生することになり、原因の特定が明確です。つまり<からだ>とはなにかという、ある種哲学的な疑問に答えずとも、目で見てわかる障害があるので、原因が分かり易いということです。


これに対し精神障害は当然<こころ>の障害ですが、

<こころ>というものが物質的にはっきりとりだせるわけではありません。

体のどこに<こころ>があるのか、問われて明確な答えはでません。

②二つの精神医学

この<こころ>への捉え方によって、精神障害に対するアプローチが2つに分かれます。

(1)「正統派」精神医学

こちらは<こころ>を脳に還元して捉えるアプローチです。

精神障害、つまり<こころ>の障害とはすなわち、脳の器官障害であるという見方を取ります。この見方では、「脳はもともと合理的な機関であり、その脳が故障するため、非合理的な精神障害が生まれる」と考えます。


そして、身体障害と同じように、異常のある脳の一部分という物理的原因を特定し、治療をすることになります(例えば外科的な手術を行うこともありますが、典型的には薬物治療を行います)。


(2)力動精神医学

次に、<こころ>を脳のような物質的なものとして捉えるのではなく、

周囲の人間との関係性(いわば「脳の外」)によってうまれる体験世界として捉える見方です。


この見方は「正統派」とは異なり、「<こころ>とはもともと非合理性を常にはらんでいる」と考え、その非合理的な精神がどのように周りの人間との関係性を築いていくかを分析します。この見方からすると、もともとあった非合理をうまく飼い慣らすことができない場合に精神障害が表に出ると考えられます。


そのためこの見方においては、対人関係に関する解釈を本人が変えていくような対話的なアプローチで治療をすることになります。(典型的には、患者がカウチ(寝椅子)にすわりながら治療者と対話をする精神分析が挙げられます。例えば以前取り上げたエリクソンは、こちらの流派に属しています)


これらの二つのアプローチに基づき、

さまざまな精神障害の分類がなされていきました。


詳細な分類についてはこの記事では省略し、

主に本書が扱う児童精神障害の3つの代表例

①発達障害②学習障害③ADHDについて見ていきます。


3. 精神発達の道筋

 

上記の3つの代表的な児童精神障害を見る前に、そもそも<こころ>の発達、精神発達とはどのようなものかを見ていく必要があります。

発達とは何かを確認し、その発達の中で、定型的な発達をしていないもの(非定型発達)として精神障害を見ていくためです。


①概観

精神発達をもたらす要因は極めて多様です。

個人が元々もつ生物学的条件(脳や身体のありかた)、外部からの物質的な働きかけ(衣食住の供与など)、

個人が元々もつ他人への志向性、外部からの対人的働きかけ(親の愛情など)、

など、多様な要因が絡まって精神発達に道筋が決まります。

そして、上にみたように複雑な条件が絡み合うって精神発達の歩みが決まるとすれば、

その歩みのばらつきは、正規分布に近いものとなります。

これは、人の身長のような自然条件(生物学的条件)が遺伝子・環境等複雑な要因によって決定されるとき、

滝川『子どものための精神医学』p.108より

これはIQの正規分布の例ですが、精神発達もこのような正規分布に近い形になるとされます

(赤ペンでの書き込みは井口のものです。ご容赦ください)



②精神発達の二軸

児童精神障害を考えるとき、

上記の正規分布(に近い形)の中で、相対的に発達が遅れているグループについて考えていくことになります。


ではこれらのグループをどのように捉えていけばよいか。

本書では「認識の発達」と「関係の発達」という二軸で精神発達を考えることが有用だとします。


「認識の発達」とは、周りの世界について、言葉や意味を知っていき、知識を増やしていくことを指します。

「関係の発達」とは、周りの世界に対してかかわっていき、人間関係を結んでいくことを指します。



滝川『子どものための精神医学』p.72より

児童精神障害とは、認識・関係の発達のいずれかもしくはどちらもに遅れがある場合を指します。


③発達障害の分類

発達障害は本書では、以下のような分類がとられています。


(1)全般的な発達障害

(1)-1 知的障害

(1)-2 自閉症

(1)-3 高機能自閉症

(1)-4 アスペルガー症候群

※知的障害以外の三つは「自閉症スペクトラム」(ASD)とまとめられています。


(2)部分的な発達障害

(2)ー1 学習障害

医学的には読字障害・書字障害・計算障害など特定技能に困難を抱えるケースをさしますが、教育現場ではそれ以外の理由(例えばADHDや知的障害など)によって学業不振になっている場合も広い意味で学習障害と呼ぶ場合が多いとのことです。

(2)ー2 ADHD

認識の発達・関係の発達などは問題がないが、注意集中困難、多動性、衝動性を症状とするケース


本書で中心的に取り上げられるのは「全般的な発達障害」なのですが、

そこに含まれる4つの発達障害は、

上で見た精神発達の二軸に照らすと、以下のように分布されると言います。

(この分布図は仮のデータで作成されています)


滝川『子どものための精神医学』p.170より

ただこの分布図にあるように、

縦軸・横軸とも発達の程度は連続的なので、

障害同士の境界は極めて曖昧です。

4. 「共有」と精神発達

 

「認識の発達」と「関係の発達」のいずれの発達に関しても重要になるのが「共有」です。

逆にいうと、上で見た児童精神障害を持つ子供はこの「共有」に困難を抱えます。

その理由は「言葉」の獲得の過程に典型的に現れています。


この世に生まれ出た子供が、認識の発達を進めるためには「言葉」を知らなければいけません。人間はこの世界を理解するときに、必ず言葉を頼りにするからです。

本書の言い方を借りて言えば、認識の発達のためには『言葉』が必須である」ということです。


そして、子供は言葉を覚えるとき、養育者(多くの場合は親)との関わりのなかで学んでいきます。しかしこのプロセスは一筋縄ではいかず、養育者との間での、感覚・情動・関心・行為の共有があって初めて成功します。


例えば言葉を覚えるためには、大人が子供に「あれは犬というんだよ」と教えればいい気がしますが、そんな簡単ではないそうです。「あれ」といったときに、大人が関心を向けている対象に、子供も関心を向けるかはわかりません(子供は「あれ」を犬全体ではなく、犬がつけている首輪のことだと思うかもしれません)。


このように関心を共有するためには、養育者との感覚・情動の共有が必要です。

そしてその共有のためには、乳児期の泣き声やクーイングに対し、養育者が乳児の感覚・情動を察知しながらケアを行い、子供との間で基本的な信頼(相互の愛情)が生まれている必要があります。


また、ここまでは認識の発達における「共有」の重要性を述べましたが、

これは関係の発達にも直結します。

「犬」というのは、あくまで犬につけられた名前にすぎず、その呼び方はいわば社会が決めた約束です。「他人がそれを何と呼んでいるか」を頭にインストールするためには、

他人との関わりを深くし、意味を共有する必要があります。

この意味で、「共有」を通じて言葉を学ぶことは、関係の発達と密接な関わりがあります。

(ここにあるような、他者との関わりによる発達については、ワロンの記事でも触れました)


認識の発達(言葉の獲得)と関係の発達がどちらも折り重なり、

子供の精神発達が進むことがよくわかります。


5. 育つ側の難しさ:全般的な発達障害

 

さて上記のように精神発達と児童精神障害の概観した上で、

「全般的な発達障害」についてより詳しくみていきます。


本書では、知的障害、自閉症、高機能自閉症、アスペルガー症候群といった

「全般的な発達障害」の視点からその体験世界を記述していました。


①不安の大きさ

まず本書で強調されるのは、知的障害や自閉症といった非定型発達においては、

子供自身の中で、自分を取り巻く環境に対する不安がとても大きいということです。


我々の周りにはいろいろな刺激があります。今これを書いている私にとっても、

目の前の記事以外にも、

机の上のコップ、本、文房具などが目に入り、

家の外の工事の音、換気扇の音、

網戸を通して吹いてくる風、腰の痛さ、眠さなど

さまざまな刺激を受けています。

定型発達をしているものだと、これらの刺激のうち特定のもの(例えばこの記事)に集中をすることが比較的容易です。


しかし非定型発達の子供だと、これらの刺激が一気に押し寄せ、それぞれに目配せをしないといけません。加えて、認識の発達が未成熟な幼児期では、目の前の刺激に名前がついていないので、未知の刺激が次々と押し寄せてくるようで、とても不安が強いと言います。


非定型発達の子供がしばしば、特定の行動(例えば毎日同じ服を着るなど)を行うのも、これらの不安から逃れ、いつも通りのルーティンを作ることで自分の安心できる世界を作るためだと考えると、よく理解ができるかもしれません。



滝川一廣(1947年〜)


②社会生活

知的障害の子供は、認識の発達(言葉の獲得)がゆっくりなので、なかなか親子の間で言葉によるコミュニケーションがとりにくいとされます。しかし、知的障害の場合、上に見た分布図にもあるように関係の発達(情動の共有など)に目立った遅れはないので、「言葉は言えないけど、親なら子供の言いたいことはわかる」という状態になります。


他方、関係の発達が遅れる自閉症の子供の場合これすら難しく、

情動が伴わないモノトーンなコミュニケーションになることが多いとされます。


そして、親と子という二項関係でも上のように難しさがあるのに、

これが学校という多項関係の中に放り込まれると、さらに社会生活が難しくなります。


そもそも認識の発達がゆっくりなので、学校の勉強が苦手なことが多いです。

また関係の発達がゆっくりなので、友達同士が言っていることの真意がつかめななかったりします。そして二つ(認識・関係)の発達は相互に関係しているので、それぞれの発達はさらに遅れていきます(例えば、勉強が苦手で語彙力が少ないから、友達が言っていることがわからず、関係性が深まらない、と言った具合に)。


③情動の安定と規範

①でみたように、非定型発達の子供にとってこの世界は未知の刺激に満ちています。

そしてそれに情動的に反応してしまいます。


定型発達で見られるように認識の発達(言語の獲得)がなされると、一つ一つの情動に名前が付けられ、未知の情動ではなくなり、落ち着いた生活を送ることが可能になります。また、親の「しつけ」により、自分の情動を抑えて社会的に振る舞る考え方、いわば「規範」を学びます。


非定型発達だと認識の発達が遅れ、自分の情動が未知のもののままでコントロールできず、情動に振りまわれた振る舞いを見せることになります。

また、「共有」の遅れに伴い、親の「しつけ」がスムーズに進まず、規範に抑制されない情動が表に出ることになります。

「しつけ」は言語の獲得同様、親子相互の基本的信頼によって初めて成り立つので、

非定型発達の子供、特に自閉症の子供の場合、これに困難が伴うためです。


6. 育てる側の難しさ

 

本書ではこれまで、子供側の分析を主に行ってきましたが、

後半では親側の分析を行います。

親としては、発達障害の子供を持つ場合も、そうでない場合も、

子育てには現代特有の困難が生じています。

それにより子供の精神にまた別の影響が生じることがあります。



滝川一廣『子どものための精神医学』(2017)


①歴史的背景

ではまずそもそも、現代における子育ての困難さの背景とは何なのでしょうか?

(1)親の孤独化

多産多死の江戸時代までは、親子を取り巻く共同体の中で子育てが行われていました。例えば、「産み過ぎた子供を、子供に恵まれなかった家庭に与える」といったこともたくさんあったようで、子育てが親子の中に閉じず、共同体の中に開かれていたようです。そしてこの共同体は身分制度や職業組合によって形成されていました。


しかし明治以降になりこのような身分制度が廃止されると共同体が弱まり、

それにともない、「子供はその親が必ず育てる」という認識になり、

子育てが親子の中に閉じ込められます。


加えて昭和時代中期~後期の経済成長に伴い「一億総中流化」がおき、

経済的に余裕をもった各家庭は、共同体に依存せず、自立することが一般的になりました。このことも、子育てが親だけのものになることに拍車をかけました。


このように、子育てが共同体ではなく親の一身に委ねられることは、親の負担を増し、親の子育てがうまく行かなかった時のリスク(例えば育児放棄など)を増やしました。


(2)学校教育のリンクと学歴主義

また、学校制度の変化により、子育てへのプレッシャーが増えました。


まず1872年の学制導入以降、学校教育が急に拡大しました。

戦前は学校制度が複線的で、「職人の子は専門学校へ」といったように、

職業内容と学校で学ぶ内容が密接にリンクしていましたが、

戦後に入り学校制度が単線的になり、学校で学ぶアカデミックスキルと職業内容の乖離は進みました。


戦後高度経済成長以降その傾向は増し、その中で学歴主義が発達しました。

子育てを担う親としては学歴を子供に獲得させることに対するプレッシャーが増えました。職業内容を学ぶ学校であれば、訓練である程度何とかなるものの、

学歴を獲得するためには特殊な技能が必要であり、かつ競争率が高いため、

「落ちこぼれてはならぬ」というプレッシャーは非常に強いものとなりました。

(このような学歴主義の問題は、天野竹内苅谷といった日本の代表的な教育社会学者が分析してきた問題です)


(3)産業の高度化

最後に、産業が高度化し、学校で習う学習内容が仕事に直結しなくなったことは、子供たちの学習意欲にも影響しました。


「これを学んで何になるの?」という疑問が常に子供の頭にめぐり、

学習意欲が低くなったことは、上記の文脈では、親の負担をさらに増やすことになります。


ではこのように、親を取り巻く環境が厳しいものとなった歴史的背景をおさえた上で、具体的にどのような子育て上の問題が生じているのでしょうか?


②求められる教育への適応

 

本書では子育て環境が厳しくなる中で、


(a)子育て環境に適応できる親、それどころか過剰適応してしまう親

(b)子育て環境に適応できない親


の二つに分け、それぞれが抱える問題を分析していました。


(a)の場合、親が子供に関わり過ぎ、手厚い接し方をしすぎ、

「子離れ」ができないことによりいくつかの問題が生じます。

典型的には、家庭内暴力・社会的引きこもり(家族とは接するが家の外に出ない)・摂食障害などの問題が生じたとされていました。(対処方法も書かれていたましたが、長くなるのでここでは割愛します)

また(b)の場合、児童虐待に典型的に見られるように、ゆとりがなってしまった親が子供に対して攻撃的になる状況が分析されていました。


そしてこの分析においては、「親が悪い」という一方的な断罪ではなく、親の事情も斟酌すべきといった、筆者の考えが述べられていました。上記のような歴史的背景を踏まえ、(ⅰ)経済的事情(ⅱ)家族間の不和(ⅲ)疾病(ⅳ)発達障害などの子どもの障害といった複合的な背景が提示され、親としても攻撃的になりたくてなっているわけではないという分析がされていました。


【塾の文脈での読直し】

 

さて、<こころ>についてのある種哲学的な議論から、

発達障害の分類、その体験世界、親側の事情など

さまざまな点に目配せのある本書を読んできましたが、

どのように現場に生かせるでしょうか。


個人的には、自分の視点を置き換えるための助けになると思いました。


まず「発達障害」などどのような名前で呼ぼうと、

学習(それに伴い人間関係)に困難を抱える生徒がいた場合、

その生徒の体験世界がどのようなものなのか、考えなければなりません。

(完全な理解はなく、想像するしかありませんが)


本書にあった「言葉の獲得」の記述にもあるように、

定型発達における認識・関係の発達は当たり前に起こるものではなく、

それ自体が一つ一つの「共有」の積み重ねがあって初めて成立するものです。


それがうまくいかなかった場合に子供が抱える不安や、

情動に振り回されるつらさを考えると、接し方が変わってくるのではないでしょうか。


本書にもあったように、発達障害の各パターンは境界があいまいです。

名前をつけて終わりではなく、その生徒の体験世界に、可能な限り近づく努力が求められるのだなと思いました。


また、視点を置き換える先は生徒だけではなく、でもあります。


本書で述べられたように現代の子育ては困難をきわめ、

親に大きな負担がかかっています。

虐待に典型的にみられるように、

子育てに何らかの問題がある場合、それはそれとして対処・改善する必要はありますが、

それに至った背景を考えなければ一方的な断罪で終わってしまいます。

「加害者」は同時に「被害者」であるということを踏まえると、

共感はできない場合でも、深い傾聴はできるかもしれません。

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