こんにちは!Freewillトータルエデュケーションの井口です!
今回は竹内洋『日本のメリトクラシー:構造と心性』をとりあげます。『教育の社会学』(有斐閣アルマ、2010年)の参考文献からとりあげました。
【概要】
苅谷剛彦についで、日本人の教育社会学者としてとりあげるのは竹内洋です。
同じく現代日本を代表する教育社会学者で、世代的には苅谷のひとまわり上となります。
実は本田由紀(苅谷のひとまわり下の教育社会学者)のメリトクラシー論を記事にしようとしていたのですが、自分の問題意識との関係で少し物足りないような気がしたので、日本のメリトクラシー論の大家である竹内まで遡っていました。
1. 竹内の問い:競争の焚き付け
本書における竹内の問いはずばり
「なぜ日本は欧米と異なり、
国民の多くが受験競争や昇進競争に巻き込まれているのか?」
という点です。
日本が学歴社会であるということ、もしくは日本のサラリーマンが「モーレツ」と形容され、激しい競争に巻き込まれていることはよく指摘されてきたかと思います。それが日本人としての生きづらさを生み出しているという見方もよくされることかと思います。
竹内は、この日本人の根幹に関わるような問題に対して問いを投げかけているのです。
竹内は受験や昇進の制度に着目し、常に競争が焚き付けられる背景を探っていきます。
2. 理論的背景:メリトクラシーと疑念
2-1. メリトクラシー
苅谷についての記事でも書いたように、純粋な能力に基づいて受験や昇進の選抜が行われることを「メリトクラシー」(能力主義)と呼びます。そのため、メリトクラシーは受験や昇進の選抜を考える上で出発点となる基本理念となります。
もし、「努力する→能力をつける→その能力を欲しがる学校・企業によって選ばれる」という流れがしっかりと確立しているのであれば、受験競争や昇進競争が起きる理由は納得できるため、竹内の提示する問いは生まれる余地がありません。
2-2. メリトクラシーへの疑念①:ヨーロッパのケース
しかしヨーロッパでは、上記のようなメリトクラシーの理念に対し、常に疑念が立ち現れます。つまり、
「メリトクラシーの理念って実はまやかしなのでは?」
という疑念です。
そのような疑念のうち代表的なものは、このブログでも何度も取り上げている「文化的再生産」という議論です(フーコーやバーンステインの記事)。
簡単に言えば「出身階層によって選抜されるかどうかが決まってしまっているので、頑張っても意味ないよね」という認識が社会に一般化し、競争熱が冷却されるということです。

フーコー『監獄の誕生ー監視と処罰』(1975)

バーンステイン『<教育>の社会学理論』(1996)
2-3. メリトクラシーへの疑念②:日本のケース
しかし日本では受験競争も昇進競争の加熱し続けているので、文化的再生産論のような疑念はあまり我々日本人の頭をもたげていないようです。このあたりは苅谷も同様のことを指摘していました。(もちろん、文化的再生産は明確にされていますが、それに対する問題意識が薄いということです)
では日本ではメリトクラシーに対する疑念はないのか、というとそうではないでしょう。日本人が、すべての努力が結果に結びつくと単純に信じているわけではありません。
そうなると、ヨーロッパ流のメリトクラシー論(もしくはそれに対する疑念)は日本では通用しないため「日本のメリトクラシー(本書のタイトル)」を研究する必要があるということになります。
そこで竹内はメリトクラシーに対する日本的な疑念として、「学歴社会論」をとりあげます。
日本では「学歴を得たものが良い果実を勝ち取る」という認識が一般化しています。ヨーロッパでは「階級が良い人が良い果実を勝ち取る」という認識なのに対し、日本は学歴社会の意識が強いということですね。これは、メリトクラシーに対する日本的な疑念を示しています。「結局社会において評価されるのは学歴であって、能力ではないのでは?」というメリトクラシーに対する疑念ですね。
3. 再加熱の制度
しかしこの事実だけではとどまらないのが竹内の議論の面白いところです。
竹内は「もし学歴社会の意識(メリトクラシーへの疑念)が強いだけであれば、競争はすぐに冷却するはずだが、日本の競争は常に加熱されているのはなぜなのだろう」と問うのです。
より具体的に言えば、高校受験で選抜がなされたあと、「自分は高校受験で失敗したから(=学歴がないから)もう競争には勝てない」と競争を降りてしまう(冷却してしまう)のではなく、「次は大学受験だ!」と再加熱するのはなぜか、と問うているのです(そして再加熱は就職時や就職後にも続きます)

竹内 洋(1942年(昭和17年)1月8日 - )
この問いに対し、竹内が出す答えは、以下のようなものがあります。
3-1. 横並びの競争意識:「層別競争」
受験においては、偏差値が低いからといって競争から降りるということはないです。なぜなら進学先となる高校も大学も、偏差値によって細かく序列化しており、低い偏差値の生徒は同じ偏差値の生徒と常に競争を強いられるからです。
会社における昇進においても、同期一括採用をしていて、ゆったりとした年功序列的昇進ペースが採られている場合、常に横にいる同期との昇進機会の差を意識し、競争心が焚きつけられます。
つまり日本の学校でも企業でも、横並びの人間の層が設定され、常に横を見て、同じ層の人間と競争をするという意識が強いということになります。これを竹内は「層別競争」と呼びます。