教育社会学⑦竹内『日本のメリトクラシー:構造と心性』(1996=2016)


こんにちは!Freewillトータルエデュケーションの井口です!


今回は竹内洋『日本のメリトクラシー:構造と心性』をとりあげます。『教育の社会学』(有斐閣アルマ、2010年)の参考文献からとりあげました。

【概要】

苅谷剛彦についで、日本人の教育社会学者としてとりあげるのは竹内洋です。

同じく現代日本を代表する教育社会学者で、世代的には苅谷のひとまわり上となります。


実は本田由紀(苅谷のひとまわり下の教育社会学者)のメリトクラシー論を記事にしようとしていたのですが、自分の問題意識との関係で少し物足りないような気がしたので、日本のメリトクラシー論の大家である竹内まで遡っていました。



1. 竹内の問い:競争の焚き付け

本書における竹内の問いはずばり

「なぜ日本は欧米と異なり、

国民の多くが受験競争や昇進競争に巻き込まれているのか?」

という点です。


日本が学歴社会であるということ、もしくは日本のサラリーマンが「モーレツ」と形容され、激しい競争に巻き込まれていることはよく指摘されてきたかと思います。それが日本人としての生きづらさを生み出しているという見方もよくされることかと思います。


竹内は、この日本人の根幹に関わるような問題に対して問いを投げかけているのです。

竹内は受験や昇進の制度に着目し、常に競争が焚き付けられる背景を探っていきます。

2. 理論的背景:メリトクラシーと疑念


2-1. メリトクラシー

苅谷についての記事でも書いたように、純粋な能力に基づいて受験や昇進の選抜が行われることを「メリトクラシー」(能力主義)と呼びます。そのため、メリトクラシーは受験や昇進の選抜を考える上で出発点となる基本理念となります。


もし、「努力する→能力をつける→その能力を欲しがる学校・企業によって選ばれる」という流れがしっかりと確立しているのであれば、受験競争や昇進競争が起きる理由は納得できるため、竹内の提示する問いは生まれる余地がありません。

2-2. メリトクラシーへの疑念①:ヨーロッパのケース

しかしヨーロッパでは、上記のようなメリトクラシーの理念に対し、常に疑念が立ち現れます。つまり、



「メリトクラシーの理念って実はまやかしなのでは?」



という疑念です。

そのような疑念のうち代表的なものは、このブログでも何度も取り上げている「文化的再生産」という議論です(フーコーバーンステインの記事)。


簡単に言えば「出身階層によって選抜されるかどうかが決まってしまっているので、頑張っても意味ないよね」という認識が社会に一般化し、競争熱が冷却されるということです。



フーコー『監獄の誕生ー監視と処罰』(1975)


バーンステイン『<教育>の社会学理論』(1996)

2-3. メリトクラシーへの疑念②:日本のケース

しかし日本では受験競争も昇進競争の加熱し続けているので、文化的再生産論のような疑念はあまり我々日本人の頭をもたげていないようです。このあたりは苅谷も同様のことを指摘していました。(もちろん、文化的再生産は明確にされていますが、それに対する問題意識が薄いということです)

では日本ではメリトクラシーに対する疑念はないのか、というとそうではないでしょう。日本人が、すべての努力が結果に結びつくと単純に信じているわけではありません。


そうなると、ヨーロッパ流のメリトクラシー論(もしくはそれに対する疑念)は日本では通用しないため「日本のメリトクラシー(本書のタイトル)」を研究する必要があるということになります。


そこで竹内はメリトクラシーに対する日本的な疑念として、「学歴社会論」をとりあげます。


日本では「学歴を得たものが良い果実を勝ち取る」という認識が一般化しています。ヨーロッパでは「階級が良い人が良い果実を勝ち取る」という認識なのに対し、日本は学歴社会の意識が強いということですね。これは、メリトクラシーに対する日本的な疑念を示しています。「結局社会において評価されるのは学歴であって、能力ではないのでは?」というメリトクラシーに対する疑念ですね。

3. 再加熱の制度

しかしこの事実だけではとどまらないのが竹内の議論の面白いところです。


竹内は「もし学歴社会の意識(メリトクラシーへの疑念)が強いだけであれば、競争はすぐに冷却するはずだが、日本の競争は常に加熱されているのはなぜなのだろう」と問うのです。


より具体的に言えば、高校受験で選抜がなされたあと、「自分は高校受験で失敗したから(=学歴がないから)もう競争には勝てない」と競争を降りてしまう(冷却してしまう)のではなく、「次は大学受験だ!」と再加熱するのはなぜか、と問うているのです(そして再加熱は就職時や就職後にも続きます)



竹内 洋(1942年(昭和17年)1月8日 - )


この問いに対し、竹内が出す答えは、以下のようなものがあります。

3-1. 横並びの競争意識:「層別競争」

受験においては、偏差値が低いからといって競争から降りるということはないです。なぜなら進学先となる高校も大学も、偏差値によって細かく序列化しており、低い偏差値の生徒は同じ偏差値の生徒と常に競争を強いられるからです。


会社における昇進においても、同期一括採用をしていて、ゆったりとした年功序列的昇進ペースが採られている場合、常に横にいる同期との昇進機会の差を意識し、競争心が焚きつけられます。


つまり日本の学校でも企業でも、横並びの人間の層が設定され、常に横を見て、同じ層の人間と競争をするという意識が強いということになります。これを竹内は「層別競争」と呼びます。

3-2. 下克上的価値観:「リシャッフル選抜規範」

また日本では、昔から「下克上」の考え方があり、「いったん負けても敗者復活ができる」という考えが根強いです。また、「能力は努力によって矯正できる」という考えも強く、一旦選抜でまけたとしても、能力をつければ再び選抜されることが可能だされています。


実際企業の人事担当からしても「能力があれば学歴は関係ない」「第一次昇進で選抜されなかったものが、次の昇進で先行者を追い抜くことはありえる」といった言説は一般的になっているとのことです。

これらをまとめると、「日本は一度競争に敗れても、競争が冷却せずに再加熱するのはなぜか」という問いに対する答えが見えてくるかと思います。


4. 日本型メリトクラシーの帰結

常に目の前の競争を横にいる人と行っている日本型メリトクラシーはどのような帰結をもつでしょうか。


竹内はそれを「長期的野心の蒸発と解体」という視点から考察します。

つまり、目の前の受験競争、昇進競争に一喜一憂し続けることで、長期的な目標や野心、理念や夢などを見失ってしまう人間が形成されているということです。

受験競争を勝ち抜いた東大生が「東大までの人」とされてしまうことによく現れていますね。



周りを見ながら従順に目の前のことをこなし、愚直に上昇を目指す「サラリーマン型」の人間が生まれることに対しては、肯定的な評価も否定的な評価もできると思います。


サラリーマン型人間はたしかに生きづらい。しかしそれは、社会の成員全員が生きづらさを分散的に共有しているだけで、一部の人に生きづらさが集中していないとみなすこともできるからです。


いずれにせよ、竹内はそのような人間が生まれる背景として、日本型メリトクラシーを見ているのです。




竹内洋『日本のメリトクラシー 構造と心性』増補版(2016)



【塾の文脈での読直し】

日本の教育社会学の大物、竹内洋の議論を見てきました。

名前は知っているものの、本は読んだことがなく、本書を読んで名前の読み方すら初めて知りました(「ひろし」ではなく「よう」と読みます)。


竹内の議論は、学習塾の業務と並べて考えるとわかりやすいように見えます。

つまり、「層別競争」は受験の進路指導を思わせますし、

「競争の再加熱」は高校継続を促す際の謳い文句の背景を成しています。

おそらく昨今の、大学への推薦型入試の増加も、この視点から見れば「競争の再加熱」の装置の一つになっているのでしょう。


その意味で、学習塾の指導のセオリーは、竹内が指摘するような日本の社会状況の反映である(そして社会状況の再生産装置でもある)ということがよく分かった気がします。



もちろん、竹内の議論を社会学的に批判するという方向もあるかと思います。

日本の選抜・昇進制度は変わってきているという方向の批判です。


しかしもし竹内の説明をある程度受け入れるとすれば、次なるステップとしては


・いわゆるサラリーマン型人間を肯定的に評価するか否かを考える

・否定的に評価する場合、現状の選抜制度に塾として適応しつつも、別の形の人間を育てるためにどのようにすれば良いかを考える


というように、教育理念の彫琢が求められていくと思います。


苅谷の記事の末尾で述べたように、

教育理念を考える上で、本書のような教育社会学的な視点は不可欠になると思います。