教育社会学④苅谷『大衆教育社会のゆくえ』(1995)

こんにちは!Freewillトータルエデュケーションの井口です!



今回は苅谷剛彦『大衆教育社会のゆくえー学歴主義と平等神話の戦後史』をとりあげます。『教育の社会学』(有斐閣アルマ、2010年)の参考文献からとりあげました。


【概要】

書評11本目にして初の日本人、苅谷剛彦です。

現代日本を代表する教育社会学者で、現在はオクスフォードで教鞭をとっているそうです。

最近は『オックスフォードからの警鐘: グローバル化時代の大学論』なども出版し、精力的に教育についての発言を行ってくれています。


おそらく(独断ですが)本書は苅谷の最も読まれている本で、

「大衆教育社会」という言葉も様々な箇所で用いられるようになっています。


私自身も「大衆教育社会」という言葉をよく聞いていたので、読む前は

「高校進学率が高まり、日本人ほぼ全て(大衆)が義務教育+高校を受けている」という、よく聞く大衆教育の拡大の本かな?とおもっていたのですが、いい意味で期待を裏切られました

以下に順を追ってみていきます。



苅谷剛彦(1955年12月19日-)


1. 戦後教育の量的な変化

上記のような「大衆教育の拡大」については、あくまで本書は前提的な事実として述べるだけにとどまっています。まずはその前提的な事実を確認します。


苅谷は戦前から戦後にかけて教育に関して大きな変化があったとして、


・戦前は複線型の教育課程が設定されていて、小学校卒業以降は職業教育に進む人と、教養教育に進む人で異なる道を歩む人が分かれていたが

・戦後に単線型の教育課程への制度変更が生じ、

・加えて60年代以降、高校(後期中等教育)に進学する人の数の増加して、大衆にまで教育が拡充された


と整理します。


2. 戦後教育の質的な変化

しかし苅谷は「高校進学者数の増加」のような「量」的な変化と共に、「質」的な変化も起こったと指摘しています。量的な変化が客観的なものだとすると、質的な変化は人々の心の中の変化、いわば主観的な部分の変化になります。


その主観的な質的変化は、以下の2つです。


2-1.平等主義の登場

戦後日本では、「教育の機会は一部のエリートだけに与えられるのではなく、大衆に平等に開かれるべき」という平等主義的考えが強くなりました。そして上記のように実際に高校進学率が上がってくるにつれて、「機会は平等に開かれるようになった」と認識されるようになります。


2-2.メリトクラシー(能力主義)の台頭

機会が平等に開かれるとすると、その機会をどう利用するかは当人の能力次第ということになります。がんばった分だけ能力がつき、その能力に応じて評価される社会、ということですね。このような考え方を「メリトクラシー」(能力主義)と呼びます。


この二つが組み合わさると

誰にでも機会は開かれているのだから、しっかりと勉強をして立身出世をしよう!」という考えに至ります。これは福澤諭吉に典型的に現れる考えだと思いますが、

現代まで引き続いている通奏低音であるかと思います。




高校への進学率と生徒数の推移

(2008年文部科学白書)



3. 日本的特徴:平等主義の神話

上記の平等主義・能力主義、そこから起因する立身出世主義は一見して良いもののように見えます。しかしこの認識は歪んでおり、そこにこそ日本社会の特徴がある、と苅谷は指摘します。(だからこそ、本書の副題に「神話」という言葉が使われています)


3-1.文化的再生産の等閑視

果たして立身出世は誰にでもできるのでしょうか?そうではないですよね。

バーンスティンフーコーの記事でも述べたように、イギリスやフランスでは「文化的再生産」の議論が盛んです。アメリカでもそうであるようです。


しかし日本では「機会は平等だからあとは本人次第!」という考えが強く、家庭環境の不平等を不問に付してしまう傾向にあると、苅谷は指摘します。「家庭環境によって、学校教育で不利に評価されてしまう」というスタートラインの不平等さを認識していないと言うことですね。


3-2.エリート文化の不在

文化的再生産の等閑視の背景には

学校の試験は特定の階級に有利になっておらず、中立的な内容なので、誰にでも門戸が開かれている」という考えがあるといいます。


他方欧米では「学校の文化は、上流階級の文化に近く、上流階級の人間の方が学校で高い評価を受けやすい」という考え方が強いといいます。


別の見方をすればヨーロッパには確固たる「上流階級(エリート)の文化」があり、日本にはそれがない。むしろ日本の上流階級は「学歴エリート」と呼んだほうがいいほど、学校的学力しかみにつけていない、ということです。


4. 大衆教育社会のゆらぎ


このように、平等主義・能力主義の歪んだ考え方をもった戦後日本では、

文化的再生産を不問に付す「大衆教育社会」が形成されてきました。

これでは、社会の格差や不平等がなかなか改善されなさそうだ、とわかりますね。



ただ1995年刊行の本書の中で苅谷は、

大衆教育社会はゆらいできている」と述べています。


具体的には、


・1985年の臨時教育審議会(臨教審)以降の「教育の自由化」の流れの中で、画一的な(平等主義的な)教育ではなく、個性を伸ばす教育が盛んに叫ばれている。

・しかし「個性」を評価するとすれば、それは階級文化から中立的な評価方法ではありえず、欧米流の文化的再生産をさらに加速するだけではないか?

・日本では文化的再生産が無視されて「大衆教育社会」が形成されてきたため、その認識の歪みを直視しないまま教育改革を進めてはいけない


と述べています。


このあたりは、バーンスティンの記事でも触れたように、昨今の教育改革にも突き刺さる分析となっていますね。




苅谷剛彦『大衆教育社会のゆくえー学歴主義と平等神話の戦後史』


【塾の文脈での読直し】

単に「大衆が教育を受けられるようになった」という認識にとどまらない本書の議論でしたが、これをどのように今後に生かしていけば良いでしょうか。


「文化的再生産論が日本では等閑視され、教育改革も現実を見ていない」という本書の指摘は、学習塾の文脈からは「塾の教育理念づくり」に大きな示唆を与えると思いました。


もちろん、教育理念の核心的な要素は、教育者である自分自身の経験や情熱から出てくるかとおもいます。しかし自身の経験・情熱に加え、しっかりと理論的な背景を伴い、現実の教育状況との対話の中でその教育理念を磨き上げていくべきものであると感じました。


より具体的には、


・文化的再生産など、教育学の理論で指摘されている客観的問題をしっかりと認識しておき、

・実際の世論や政策決定者において、そのような客観的問題がどのように解釈されているか(もしくは無視されているか)を認識し、

・世論や政策決定者の認識の歪みに惑わされず、客観的問題の解決に邁進すべく理念を磨き上げる


ということです。


自分自身、教育理念はあっちにいったりこっちにいったりしてきました。

多分それは、自分の感覚だけで考えていたからでしょう。


この書評を書きながらやっと教育学の理論をちょっとずつ勉強できるようになりました。


今後文献を読む際には、


・自分の教育的な問題意識はどのような理論と関係しているのか?

・それは現実の教育政策ではどのように扱われているのか?


と考えてながら認識を深めていきたいと思います。