教育社会学⑨天野『教育と選抜の社会史』(1982)

更新日:9月3日

こんにちは!Freewillトータルエデュケーションの井口です!


今回は天野郁夫『教育と選抜の社会史』をとりあげます。『教育の社会学』(有斐閣アルマ、2010年)の参考文献からとりあげました。


【概要】

 

天野郁夫は日本を代表する教育社会学者で、

これまで取り上げた苅谷よりは20年ほど歳上、

竹内よりは6歳ほど歳上になります。


天野は主に、日本の教育制度における、

試験・選抜などの問題を研究し、

特に「なぜ日本の学歴主義が強固なのか」という問いを長年追究してきました。


本書は、学歴主義についての天野の主著で、

理論的精緻さ、他国との比較、日本の歴史的分析、といった

複数の重量級課題を同時に達成した、

「日本の教育社会学研究の、第一級の古典」(本書解説を書いている苅谷のことば)

だとされています。


本書で天野は、


「学歴主義は、産業化にとって普遍的な問題であり、産業化をする国であればどの国も何らかの形で学歴主義の問題を抱える


という結論の妥当性を、鮮やかに示していきます。



天野郁夫『教育と選抜の社会史』



1. 選抜の理論

 

では産業化に学歴主義が必然的に伴う、と天野が主張するにあたって、

産業化と教育の関係はどのようなものとして描かれるのでしょうか


それは

「産業化社会においては、職業か専門分化・高度化するため、それに合わせて社会の人員(国民)を能力別に選別する必要が生じる」

「その人員選別は、学校教育によって行われる」

という関係です。


前近代社会に比べ、産業化が進んだ社会においては

行政や企業が行うことが細かく専門分化していき、高度化していきます。

また、前近代の人々の職業は、階級に基づく世襲で決まるため固定的ですが、

近代の産業化時代では、階級構造がゆるみ、国民が自ら職業を選んでいくことが多くなります。


つまり、社会における職業が多様化・細分化していき、

その職業に就く人々も多様になる中で、

「誰がどの職業につくか」を選ぶプロセス、

すなわち選抜のプロセスが重要になるということです。

そしてその選抜を教育が担うようになります。


「産業化は選抜・教育を要求する」

これは天野が産業社会の普遍的な性質として指摘することです。



2. ヨーロッパにおける学歴主義

 

しかし、産業化が選抜を要求するとしても、

それが学歴主義に直結はしません。


例えば、各企業や各職業が、各々で入社試験・資格試験を設け、

学校を経由せずに職業選抜を行うこともあり得るからです。


しかし現在では、教育的選抜(つまり学歴)が職業的選抜(つまり就職)に直接的に接続することが当然になっています。つまり学歴主義となっています。


では、この学歴主義という現象はどう生じたのでしょうか。

天野はまず、日本より先に産業化をしたヨーロッパ諸国の歴史を分析します。


2-1.16〜17世紀:業績主義(メリトクラシー)の導入

アリエスの記事でも見たように、ヨーロッパでは16世紀ごろから学校教育が体系化されていきます。天野もアリエスに依拠しつつ、学歴主義との関連で、以下の2つを重視します。


・16世紀ごろに学級制度がうまれたこと

・17世紀に入ると、イエズス会宣教師経由で、中国の「科挙」が紹介され、業績主義(試験得点に基づく客観的選抜方法)の要素がヨーロッパの学校にもたらされたこと


アリエスが指摘していたように、ヨーロッパではそれまで、年齢がバラバラの子供が同じ教室に混在し学んでいたり、卒業のために試験を設定するのではなく、徒弟制的に、師匠たる先生に認められれば卒業するという形で学習が行われていました。


16・17世紀のこのような変化は、

「教育によって人々を選抜していく」という大きな流れを作り出していきました。




天野郁夫(1936年1月7日 - )


2-2. 18世紀絶対王政における官僚選抜

教育的選抜を利用したのが、18世紀に隆盛した絶対王政国家でした。

産業化によって国力を高めるために、国家官僚養成が必要だった各国の国王は、

エリート育成・選抜のための期間として高等教育(大学)を捉えるようになっていきます。


また、高等教育のために必要な古典的教養を身につけるために、

中等教育を整備するようになります。中等教育と高等教育が接続し、

中等教育卒業資格を獲得したもののみが高等教育にステップアップできるようになります。


ドイツのギムナジウム、フランスのリセ、イギリスのパブリックスクールなど、

各国で中等教育が整備されていきます。


しかし、エリート選抜の母体は国民全体ではなく、限られた階級の子息でした。

言い換えれば、当時の教育制度は平等主義的ではありませんでした。


なぜなら高等教育に上がるためには中等教育までの古典的教養(ラテン語など)の教育が必要であり、そのために要する長期の教育期間の学費を捻出できるのは、限られた階級の人々だったからです。


結果として、この高等教育・中等教育の整備は、

中流階級・上流階級の文化再生産に帰着していきます。

ブルデューの議論が歴史的にあとづけられています)


2-3. 19世紀:複線型教育へ

官僚養成に、中等教育・高等教育での選抜が用いられたことは、

学校・試験・職業が一直線につながっていったことを意味します。

上で述べた表現を使えば、教育的選抜と職業的選抜が接続したことを意味します。


この接続は、19世紀に入ると、官僚だけではなく、

そのほかの専門職(医師・弁護士など)の領域にも広がっていきます。


加えて産業革命が本格化する19世紀には、従順で勤勉な労働者を作り出すため、

下層階級に対する大衆教育(初等教育)が施されるようになります。

フーコーの議論に近いですね)


しかし、初等教育の目的は労働者の育成であり、下層階級の社会的上昇(階層移動)ではありません。下層階級を上に引き上げるのではなく、より質の高い労働者にするための教育であり、中流階級以上のために設備された中等教育以上へのステップアップは考えられていませんでした。


労働者・農民は初等教育どまり、

中流階級以上は中等教育・高等教育で古典的教養を深める、

という複線型の教育制度が各国で作られていきました。



天野郁夫『試験の社会史』

本書の姉妹本とされる著書です。

人文系の書籍に対する代表的な賞である、サントリー学芸賞を受賞した作品です。


3. 日本における学歴主義

 

さて上で見たように、ヨーロッパでは産業化に伴い、中流階級以上の人々が教育的選抜を通じて職業につくようになっていきました。


日本もおおむね同じ流れを辿りますが、ヨーロッパと社会・文化・歴史的に異なっている日本では、より学歴主義が強固になることになります。


3-1. 階級なき学歴主義

ヨーロッパでは、学歴を得ることは、旧支配階級の文化である古典的教養を身につけることであると考えられました。市民革命・産業革命によって力をつけた新興中産階級も、旧支配階級(貴族や聖職者)の文化に同化していく傾向にありました。新興中産階級は、それまでにようにあくせく働くのではなく、貴族のように古典的教養を身につけ優雅に暮らしたい、という欲望を持っていたのです。


しかし日本の場合はそうではありません。

明治維新において下級武士が革命を起こしたため、支配階層の文化を下層階級が捨て去り、自らが国家の担い手としてのスキルを得る場所として学校を捉えるようになっていきます。ゆえに、支配階層のエリート文化を維持するための学校ではなく、単に国力を上げるための学校が機能するようになります

(エリート文化の不在は苅谷も指摘していました)


そのため、官僚や弁護士など以外の、「あくせく働く」ような産業人も中等・高等教育に進出していくことになります。その結果、ヨーロッパに比べ、学歴によって民間企業の就職が影響を受けることになっていきます。


3-2.学校歴

ヨーロッパでは、大学の序列というものは、長らく存在しませんでした。というのは、前近代から各職業団体の中で「資格制度」が一般的だったからです。ある職業の親方になるためには、ある資格を取らなければいけない。その資格は別の親方のもとで修行すれば誰でもなれる。その文化を受け継ぎ、どの大学であっても、卒業資格は同じ価値をもった証明書になる、と考えられていました。大学間に優劣は存在していなかったのです。


しかし、日本の場合このような試験制度の伝統はありませんでした。

そのため、「卒業証書をもっているか」自体は重要ではなくなり、むしろ

「どの大学の卒業証書」を持っているか、が重要になります。


つまり、学歴よりも学校歴が大事になるということです。

このため、大学は卒業は簡単だが入学が難しい、という日本的状況が生まれたのです。



(出所)大学経営・政策研究センター「全国大学生調査」

「日本の大学は卒業が簡単」とよく言われます。日本の大学生が勉強しなくなる背景にも、

天野が論じたような歴史的な経緯があるのですね。



このように、ヨーロッパとは異なり日本では、


・下層階級がステップアップの道具として学校を使う

・学歴だけではなく学校歴も重要になる

・民間企業の就職も学校歴に影響を受ける


という状況になっていきました。


【塾の文脈での読直し】

 

さて、戦後日本の教育社会学の中心的人物、

天野郁夫の主著を読んでみました。


理論的・空間的・時間的に射程の広いこの議論、

2点印象に残っています。



1. 学歴主義は生やさしいものではない

 

本書で首尾一貫して主張されているのは、

「学歴主義は産業化に必然的に伴うものだ」という点です。


学歴主義は安易に批判され、安易にその解体が目指されます。

しかしもし高度な産業社会においては、学歴社会が「求められる」のだとすれば、

なかなか解体をすることが難しいと言えます。


「学歴のための勉強をするのではない」と教育者が口にするとき、

学歴の粘り強さ、根強さを軽視するべきではないでしょう。



2. 国ごとの多様性を考える

 

教育制度を論じるとき、多くの場合ヨーロッパやアメリカの制度が参照されます。

この明治維新以来の思考の癖はやっかいなもので、この癖のせいで多くのことを見誤る結果になります。


今回見たように階級構造がヨーロッパと異なる日本では、

似た制度(中等教育・高等教育)がもたらす効果が異なることになります。

ヨーロッパの学歴主義を超えて、日本では学校歴主義になりました。


教育が社会構造と密接に関わっていることを考え、

日本ならではの教育を達成する必要があるのだと思わされました。





苅谷、竹内、天野と、日本の教育社会学者の古典を読んできましたが、

教育社会学における日本の蓄積が大きいものだと改めて痛感しました。


やはり特異な教育状況である日本であるからこそ、

このような優れた研究が現れるのだと思います。


いい意味でも悪い意味でも特異な日本の教育状況。

この本質をしっかりと見極めてこれからも教育に携わっていかなければいけない、

そう思います。