教育思想史④フーコー『監獄の誕生ー監視と処罰』(1975、邦訳1977)
- 2021年6月26日
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こんにちは!Freewillトータルエデュケーションの井口です!
今回はミシェル・フーコー『監獄の誕生ー監視と処罰』をとりあげます。『教育思想史』(有斐閣アルマ、2012年)の参考文献からとりあげました。
以前の記事で取り上げたイリイチと同時代人(というか同い年)で、
教育思想史的には当時の(学校)教育批判の流れの中でイリイチと並んで取り上げられることが多い著者です。
【概要】
ミシェル・フーコーはフランスの哲学者・歴史学者であり、20世紀の知の巨人と呼ばれた人物です。この短い記事でフーコー思想を総覧することは不可能ですが、
一つ言えるのは、フーコーは人々が気づかないところに「権力による暴力」を見出すということです。一見良いものとされているものが、実は人々に対して大きな権力を振るっている、そういう姿を暴き出します。
1. 「利他的な」権力
それでは本書ではどのようなものに権力を見出すのでしょうか。
この書評ブログの関心に引き付けて言えば、それは教育者の「利他性」に、です。
生徒のためを思って、生徒がよりよい人生を歩むようにサポートをする我々教育者に権力を見出すのです。
フーコーは、このような「教育者」を学校の先生に限定して語っているわけではありません。精神科医・心理学者・宗教者なども、教育者のこのような「利他的な」性質を共通してもっているとします。
つまりフーコーは、他人の生き方考え方を「良い方向に導こうとする」人々、いわば「利他的」な人々に共通する「利他的」な性質が権力的であるというのです。
何かちょっとわかるような気がしませんか。

ミシェル・フーコー(1926年10月15日 - 1984年6月25日)
2. 学校は監獄と同じだ
フーコーは、このような利他的な権力が最もわかりやすい形で働いている場所が監獄(=刑務所)であるとします。監獄は受刑者の社会更生のための施設なので、他人の生き方を「良い方向に導こうとする」点で利他的なような気がするのはわかりますね。フーコーは監獄を権力のモデルとして考えるのです。
フーコーの議論に特徴的なのは、この監獄と、学校・精神病院・カウンセリングなど全てに共通する特徴として利他的な権力を見出すことです。
つまり、学校はある意味監獄と同じということですね。
ここまでで分かるのは3つのポイントです。すなわち、
①監獄では受刑者の生き方を良い方向に更生しようとする
②学校などの別施設でも同様の方向づけが行われる
③そしてその方向づけは権力的である
という3点です。
3. 監獄における「監視と処罰」
上記3ポイントの②、学校等と監獄の共通性については後ほど説明するとして、まずは①の点、つまり権力のモデルとなっている監獄の仕組みを見ていきます。
監獄における権力の根幹になっているのは「監視と処罰」です。
(ちなみに邦訳版ではメインタイトルが「監獄の誕生」でサブタイトルが「監視と処罰」ですが、原書フランス語版ではメインとサブが逆になっています。この事実から、「監獄」の分析はあくまで「監視と処罰」の一例に過ぎないことがわかります。)
では「監視と処罰」によって、社会更生はどのように達成されるのでしょうか。
3-1. パノプティコン
フーコーが監獄の理念的なモデルとしてとりあげるのは、「一望監視施設(パノプティコン)」と呼ばれる施設です。パノプティコンはイギリスにて開発された監獄における監視システムの一つです。

パノプティコン
上のイラストを見れば分かるように、円形の建物に独房が設けられ、中央の監視塔から全ての独房が一望できるようになっています。パノプティコンは以下のような効果をもつとされます。
(ⅰ)コストパフォーマンス
少数の看守で多くの囚人を監視することができます。
(ⅱ)常に監視されている感覚
受刑者の側からすると、常に監視塔から監視をされている感覚になります。
ここで大事なのは、実際に監視されていなくても「監視されている気になる」ことです。
(ⅲ)個人間のコミュニケーションの遮断
独房に閉じ込められた受刑者たちはお互いにコミュニケーションが取れません。
そのため、一人で内省する時間が増えます。
これらの結果、
・監獄の中で求められていること(つまりある種の規範)が明確に受刑者に認識され、
・受刑者はその規範に沿っているかを常に監視「されている気」になり、
・受刑者は自分一人で(他の受刑者からは遮断されて)自分の行動について振り返り、いわば「自分で自分を監視」するようになり
・その結果、受刑者は社会の規範を自分の中に取り込み(内面化)、考え方を改めていきます。
この施設の驚くべき点は、実際には監視者がいなくとも、
監視塔があるだけで、「監視されている」と思わせ、
無意識に内省・反省にしむけるという点です。
3-2. 行動訓練
監獄では、受刑者を独房に押し込み監視をするだけではありません。
まともな人間になるための行動訓練によって、まともな行動を身体にすりこんでいきます。そしてその受刑者の精神までもまともに更生していきます。
たとえば「まともな行動」とは、早寝早起きや刑務作業、点呼などのことですね。
ここでの特徴は、一つ一つの行動の過程を細かく分解し、
徹底的にその細かい行動基準に受刑者を従わせることです。
それにより行動を無意識で行うぐらい身体にすり込み、
それを通じて精神(つまりその人の考え方)をも変えていく、という考えです。
3-3. 恩恵と制裁
最後に、監獄では良い行動は恩恵を与えられ、悪い行動には制裁が与えられます。
これにより「何が良くて何が悪いか」という基準が提示され、
個人はさらにその基準を内面化していきます。
(細かいことですが、「恩恵」も「制裁」も英語でsanctionですね。sanct-という接頭辞は「聖なる」という意味があるので、「聖なる立ち位置」(つまり社会の規範=監視者)の視点から受刑者の行動を評価するということがsanction=恩恵=制裁なのでしょう)

ミシェル・フーコー『監獄の誕生ー監視と処罰』
4. 学校と監獄の共通性
さてここまで3つのポイントのうち①である、監獄における権力のあり方を述べました。
さらに、3つのポイントのうち②で述べたように、フーコーは監獄と学校の共通性を見いだします。
3-1から3-3で述べた視点に対応させると
学校では、
①教師が教卓という監視塔から、生徒の個別の席という独房を一望できる。(パノプティコン)
②起立・着席・挙手・整列・時間割・・・etcの身体行動の徹底によって秩序をすり込んでいく(行動訓練)
③試験によってプラス及びマイナスの評価を受ける(恩恵と制裁)
このように、学校と監獄は構造的に同型なのです。
5. 社会の「監獄化」
先にも述べたように、監獄と共通点を持つのは学校だけではありません。
利他的な権力は精神病院・カウンセリング・宗教施設など、社会の様々な場所に見出されます。いわば社会が「監獄化」しているのです。
言い換えると、フーコーの狙いは、監獄に象徴的に現れている
「監視と処罰」の仕組みが、社会の日常においても随所に現れていることを示すことです。
それらの権力の特徴は
「その人がより良い人になるため、より良い生活を送るために、
ただしい行動の仕方を教えてあげる」という形で行われます。
【塾の文脈での読直し】
大物フーコーを取り上げてしまったわけですが、
本書をどのように活かすのか。2点ほど考えられると思います。
1. 「自由にさせること」の難しさを認識する
教育についての言説・評論などにおいては
・子どもたちに自由にやらせるか
・子どもたちに秩序を強制するか
という二項対立がしばしば見られます。
それぞれの学習塾も、「自由と強制」を両極とするこの軸に、自らの教育スタイルを位置付けているかと思います。
中にはこの二項対立を乗り越えようとして
「まずは型をみにつけさせ(秩序)、そこから自分なりの方法を見つけさせるのだ(自由)」という見方も登場します(守破離が典型ですね)
しかしフーコーを読むと、「自由にさせること」の難しさが理解でき、もう一歩先に考えを進められます。
社会の至る所に「監視と処罰」の権力が隠れているとすれば、
子供達は気づかないうちに外部の規範を内面化し、
それに照らし合わせて自分自身を監視し、自分自身を型にはめていきます。
そうすると、「生徒を自由にさせてあげる」といっても、
結局それは自由と言いながらも、生徒に自分自身を、内面化した社会規範でもって監視させることに他なりません。
例えば「君の好きに進路を選びなよ」と言うと、「いい高校に行っていい大学に行っていい会社に就職する」と考えるのではないでしょうか。これがいい悪いというわけではなく、社会規範はそこまで浸透していっているということです。
それは、「型を身につけさせてから自由にさせる」場合も同じです。
型を身につけているとき、子供達は自分自身を監視しています。
(例えば「成績をあげるためには、今の自分の学習量じゃ足りないな」という自己分析がそのような監視の一例かもしれません)
しかしその後に「自由にしていいよ」といっても、結局社会規範のまますごしていきます
(例えば大学生になって自由になっても、就活の場において「世間体の良いこの会社に就職するためには、もっと自己分析をしよう」というのがその一例かもしれません)
子供達は型を身につけたはいいが、型に囚われたままかもしれません。
秩序ある社会を作り維持するために教育を行うと考えれば、子供が社会規範に準じてくれるのは歓迎ですが、もし「自由」を自塾の教育目標として考えるのであれば、本当の意味で自由に考えさせることが実に難しいと認識しておかなければいけません。
2. 塾の役割の再認識:ドライな学校観
「学校は善」という考えが一般的であることはイリイチの記事でも述べましたが、
フーコーを読むと「学校が格差の再生産の舞台だ」と読み取れます。
これは非常にドライな学校観です。

本書とは直接関係ないですが、『ディスクールの政治学』(山本哲士)にあるように、イリイチやブルデューとフーコーを並べて論じる本が結構あり、参考になりそうです。
フーコーは本書の最後の2章で監獄の機能について
・監獄は決して受刑者の社会更生を完璧に執行するのではなく
・むしろ劣悪な監獄環境は前科者を再犯に走らせる「犯罪の再生産装置」であり
・再犯者を生み出すことで、それを理由にさらなる社会監視を正当化する
と述べています。
これを学校に置き換えると
・学校は決して生徒の学力向上を完璧に執行するのではなく
・むしろ過酷な受験環境は低学力者を学習からの逃避に走らせる「低学力者の再生産装置」であり
・低学力者を生み出すことで、それを理由にさらなる教育の拡充を正当化する
とも読めます。
もちろん学習塾は学校の補完機関ですから、
過酷な受験環境の中で低学力者が学習から逃避しないように徹底的にサポートしていくということになります。
以上、フーコーの解釈となります。
まだまだ全く汲み尽くせていない感しか残りませんが、
少なくとも「人のため」の権力性を暴こうとするフーコーは
彼の議論を否定するにせよ肯定するにせよ、
一度は向き合っておきたい相手です。
本書はフーコーの思想で言うと中期にあたりますので、
もっと前後に足を伸ばし、読み進めていきたいと思います。










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