こんにちは!Freewillトータルエデュケーションの井口です!
今回はバジル・バーンスティン『<教育>の社会学理論ー象徴統制、<教育>の言説、アイデンティティ』をとりあげます。『教育の社会学』(有斐閣アルマ、2010年)の参考文献からとりあげました。
【概要】
※難しかったのでとても長くなりました・・笑
バジル・バーンスティンはイギリスの教育社会学者で、
日本でも「文化的再生産」とか「文化資本」で有名なピエール・ブルデューのライバル的存在だったようです(たぶん)。
ブルデューをちゃんと読む前にバーンスティンを読んでしまったので、まずはバーンスティンから本記事で書評をします。
1. とても難しいバーンスティン
バーンスティンの議論は壮大で、学校教育含め「教育的なもの」一般における、
知識の伝達の構造や、そこにはたらく権力を明らかにするための
見方を提供してくれるものなのです!
・・といってもわけがわかりません。
かなり抽象的なので、具体的な題材に照らして考えてみます。
(そうして初めて少し理解できました・・難しい、バーンスティン。)
ここでの題材は戦後日本の教育改革にしてみます。
2. 戦後日本の教育改革
①学習指導要領の変遷
戦後日本では、学習指導要領の変遷が何度かありました。少し振り返ってみると以下のようになるかと思います。
・1947年の経験主義的学習指導要領
・1958年から1970年代後半にかけての系統主義的学習指導要領
・1977年から徐々に始まり、1989年、1998年と本格化していったいわゆる「新学力観」「ゆとり教育」的な学習指導要領
・そして学力低下が騒がれ、2002年ごろから「確かな学力」が強調され、2008年、2018年の「脱ゆとり」的な新学習指導要領につながり
・そこでは「脱ゆとり」だけではなく、「『生きる力』をいっそう育む」という方針が明確にされました。昨今教育業界を騒がせている高大接続改革もこの「生きる力」を養成するためのものとして位置づけられます。
小学校学習指導要領(平成29年告示)
②教育政策を支える様々な「観」
このような学習指導要領の変遷において、様々な人間観・社会観・教育観が入れ替わり立ち替わり現れ、教育現場に影響を与えてきました。
例えば
・ゆとり教育においては「どの子供も同じように可能性をもつのだからその可能性を引き出さなければいけない」という考えが強かったでしょうし
・系統主義や脱ゆとり教育においては
「知識を一つ一つ積み上げていかないと、まともな人間にはならない」という考えがあったでしょうし、
・「生きる力」が再解釈され喧伝される背景には、「変動するグローバル社会を生き抜く課題解決能力・実践的能力をつけないといけない」という考えがあったことでしょう。
③教育実践の変化
このように、学習指導要領におけるお題目が変わっただけではなく、実際の学習内容や教育実践にも変化が現れます。
例えば
・ゆとり教育以降は教育内容が教科横断的な色彩を帯びるようになり
・「確かな学力」の考えのもとで、40年ぶりとなる全国一斉学力調査が行われ
・「生きる力」以降はアクティブラーニングなどの生徒が主体的に参加する教育方法が世間を賑わし、学校コミュニティの外から民間校長が革新的なアイディアを持ち込んだりしました。
アクティブにラーニングしていますね
④教育改革の政策過程
このように、お題目と実践が変わってきましたが、この改革を動かしていた人々、いわゆる政策決定過程には様々なアクターが関わっていたとされます。教育政策といえば文科省ですが、それ以外にも経産省、官邸(やその後ろにいる経済界)、教育学者や教育実践家なども主要なアクターとされています。
各政策をつぶさにみると、このようなアクターの意図が見えてくるかもしれません。
例えば
・経験主義やゆとり教育などはいわゆる「進歩主義的教育」を掲げるアクター(教育学者や教育実践家など?)が押し出したものでしょうが
・「生きる力」におけるグローバル化への対応については、もしかすると経産省や経済界の影響が大きいのかもしれません。2021年の大学入学共通テストやその施行調査において、実用的な資料や文章を読む問題が導入されたり、2022年度から高等学校の新学習指導要領において、情報や統計の学習内容が増え、アクティブラーニングが推奨されたりするのは、もしかすると経産省や経済界が「グローバルビジネスにおいて有用な人材を育てたい」と思っているからかもしれません。
⑤生徒への影響
さてこのような中、学校において生徒たちはどのような影響をうけるのでしょうか。
例えば現在の高大接続改革は学力格差及び格差の再生産をもたらすかもしれません。
周知の通り、この改革では必要となる知識・技能は増えましたが、その習得が求められるだけではなく、知識・技能を前提として、それらを用いた思考力・判断力・表現力が評価されます。
知識・技能は教科書に載っていますが、必ずしも生活と結びついた形ではなく、抽象的な概念として「暗記事項」的に教えられる場合、どうなるでしょうか。家庭環境によっては、子供はそのような抽象的な言語体系を有しておらず、膨大な知識・技能を身に着けることができないかもしれません。また、自分の考えを表現する時、他人に伝わる普遍的な伝達方法への習熟度合いも、家庭環境によって大きく変わる可能性があります。
この結果学力をつけられない子供は、自らの子供に同じような家庭環境を再生産していくかもしれません。
3. バーンスティン理論の整理
さて・・・ようやく終わりました笑
あえてバーンスティンの理論や概念に沿うように
日本の教育改革について再構成してみたら、かなり長くなってしまいました。
バジル・バーンスティン(1924年11月1日 - 2000年9月24日)
これを踏まえてバーンスティンの理論の中心部を見ていくと、
以下のようになるかと思います。
教育における知識の伝達やそこにはたらく権力は、以下の6つの視点から見ていくことができます。
①「どのような知識を正統なものとして教えるか」が人為的に選別される
例:グルーバル化に対応するための「情報」科の知識、もしくは教科横断的な知識、他者に向けて表現する能力
②「正統な知識」の選別には様々な団体が関わっている
例:文科省、経産省、官邸、経済界
③「正統な知識」について、実践現場において教師が主導的に教えるか、生徒が主導的に学ぶかも同時に決定される
例:アクティブラーニングの導入
④「正統な知識」を生徒が習得しようとするが、家庭環境(文化的背景)がその知識と合致しない場合、知識を習得できずに排除されてしまう
例:他人に対する「表現力」が家庭環境によって大きくことなること
⑤「正統な知識」を選別することで、特定の社会階層が有する人間観・社会観・教育観が暗黙のうちに生徒に押し付けられる
例:「グローバル社会に対応するべき」というのは、高所得者層の経済界や東大出身者が多い経産省の価値観であるかもしれない
⑥上記の人間観・社会観・教育観が、生徒のアイデンティティに影響を与え次の世代に伝達されていく
例:高大接続改革で学力格差が生まれると、下位層となった子供は、その子供にまた不利な家庭環境を提供し、格差が再生産される
このような①〜⑥の流れを、バーンスティンは
様々な分析概念を使って理論化していっています。
(ただそれらの分析概念自体をここで書いてしまうとわかりにくいので思い切って全て省略しました。そのためバーンスティンのポテンシャルを狭めてしまっているかもしれません・・)
【塾の文脈での読直し】
さて、このように(?)複雑で長大な理論をどのように活かせるのか。
難しいところです。
ただ、ここでは2つ取り出してみます。
1. 教育政策を見る視点を養うこと
我々塾講師は普段は現場の学習指導に意識を置いていますが、
現場を取り巻く教育政策に対しても意識を張り巡らせ、生徒たちの未来を明るいものにしていかなければなりません。
とはいっても、教育政策のどこからどうみてよいのか、わかりません。
学習指導要領をみればよいのか、入試の内容を見ればよいのか・:・・色々複雑です。
そこでバーンスティン先生の出番です。
バーンスティンの議論は【概要】でも見たように、「教育政策」という上流から、「教育実践」という下流まで、言い換えればマクロからミクロまでを含むものとなっています。
上記に挙げた①〜⑥の視点をもつと、いろいろ見えてくるかもしれません。
ちなみに私としては、現在の「生きる力」に基づく教育観は、ゆとり教育が背景にしていた「進歩主義的教育観」を経済至上主義的に再解釈したものなのかなあ、とバーンスティンを読みながら思っていました。
『<教育>の社会学理論ー象徴統制、<教育>の言説、アイデンティティ』
2. 子供の言語体系(コード)を意識する
【概要】において、「生徒の家庭環境によって用いる言語体系(コード)が異なる」と述べました。
バーンスティンは階級社会の本場(?)イギリスの教育社会学者なので、
親が労働者であるか資本家であるかによって、子供が有する言語体系(語彙力・話し方・理解力)が異なるという議論をしていました。ざっくりいうと労働者の子供は仲間内でしか通用しない話し方をし、資本家の子供は仲間内の言語と公的な言語を使い分けられる、ということです。そして学校では公的な言語で授業が進むので、必然的に労働者の子供は不利になり、学力が上がらず、階級が再生産される(労働者の子供もまた労働者になっていく)ということです。
もちろん日本にも階級に準ずる社会階層はあるので、このコード理論は適用できると思います。目の前の子供の親の文化的背景(学歴、職業、ハイカルチャー志向かサブカルチャー志向かetc)をしっかり見なければいけないということです。その文化的背景が子供に引き継がれた結果、子供が学校の勉強に困っているのかもしれないからです。
学校で用いられている教え方や表現方法をそのまま使っても、子供の言語体系にあわないかもしれません。その時は、子供の言語体系を我々講師が把握し、その言語体系に沿って説明をしなおしてあげる必要があります。
先週の記事でピアジェの「シェマ」に触れましたが、すこし似ていますね。
さて、本書はこれまで紹介した本の中で一番抽象的・理論的なものだったため、
具体的なイメージを持ちながら読み進めるのが難しかったです。
ここにはかけなかったいろいろな要素があるため、
今後も関連文献などを読みながら、もう少しマシな理解をしていきたいです。
「文化的再生産」というと普通はブルデューなので
はやくブルデューも読んでいきたいと思います。
そういえば今思い出しましたが、
私の親の卒業論文がブルデューについてだったと聞いたことがあるような・・
なんと言う文化的再生産の範例でしょう。
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