こんにちは!Freewillトータルエデュケーションの井口です!
今回はエリック・バーン『心理療法としての交流分析』をとりあげます。
【概要】
エリック・バーンは、カナダ出身の精神科医で、
心の病に対処する心理(精神)療法の一つである、交流分析(Transactional Analysis:TA)という理論の創始者です。交流分析は、精神分析・認知行動療法などとならぶ代表的な心理療法の一つで、コミュニケーションの行き違いから精神疾患まで幅広い心理現象を説明し、改善することのできる理論です。
交流分析は教育にも取り入れられることの多い心理療法で、
思春期の親子関係、学校でのいじめ、不登校など多く活用されています。
「バーンはフロイトとアドラーを統合させた」といわれるように、
精神医学の大物と肩を並べる存在だそうです。
今回取り上げる本書はそんなバーンが自らの独自の理論を始めて体系的に世に問うた書籍となります。
1. 自我状態
上記のように幅広い射程を持つ交流分析ですが、
その一番基礎にあるのは「自我状態」という考え方です。
我々は一人の人間として過ごしていながら、複数の自分を持っています。
例えば、仕事をしている時とお酒を飲んでいるときの自分は感情・態度・行動は異なります。
バーンはこの「感情・態度・行動」のパターンを「自我状態」と呼び、
人には基本的に3つの自我状態があると考えます。
①「親」(Parent:P)
養育者の影響を受けた自我状態です。下位分類として、CPとNPがあります。
・CP・・Critical Parent(批判的な親)の略で、特定の規範に基づき「〜はしてはいけない」といったような判断を下す自我状態です。
・NP・・Nurturing Parent(養育的な親)の略で、他人に対して共感を示すような自我状態です。
この本ではPのことを「外心理」とも呼んでいることから、
まさに親などの「外」から入れ込まれた自我状態のことです。
②「大人」(Adult:A)
現在の自分の状況を客観的にみて、最適な行動を割り出そうとする合理的な自我状態です。
③「子供」(Child:C)
自分の子供の頃のありのままの欲望のあり方が現れる自我状態です。下位分類として、FCとACがあります。
・FC・・Free Child(自由な子供)の略で、自分の欲望のままに行動をする自我状態です
・AC・・Adapted Child(順応する子供)の略で、自分の欲望を抑え、親などの権威に順応する自我状態です。
エリック・バーン(1910年5月10日 - 1970年7月15日)
PとCの自我状態は、自分が成育するなかで経験してきた状態、過去に関連します。
Aは「いまここ」の現在の状況に関するもので、過去は関係ありません。
そして冒頭で述べた、仕事と酒の場というように、状況によってP・A・Cのどれが顔をだすかが変わってきます(仕事ではAが、酒の場ではFCが主役を握ることが多いのではないでしょうか)。
また人によってCP寄りの人とNP寄りの人がいるなど、個人差があります。
熟達した交流分析の分析家は、他人の言動や生育歴から自我状態の構造(CP・NP・A・FC・ACがどういう力関係にあり、現在表出しているのはどの自我状態か)を把握することができるそうです。
例えば「〜しなければいけない」とよく口にする人はCPが高く、「〜していいんでしょうか」と言いがちな人はACが高い、というのはわかりやすい例です。
2. 交流
さて、ここまでは個人の中の自我状態の話でした。ここから社会レベルに話が広がります。
社会では多様な自我状態を保つ人がお互いに交流をしています。
そこでバーンの分析は次に、複数の人々の間の交流に移るのです。
バーンによると、人々の交流には以下の3つがあります。
①相補的交流
交流する人同士が自我状態についての認識の食い違いがない場合です。
例えば優しいお母さんが甘えん坊の子供とコミュニケーションをとる場合、
お母さんは自分がNPとしてFCの子供と接していると考え、
子供としても自分勝手に振る舞えば(FCをすれば)優しいお母さん(NP)が対応してくれると思っています。
つまりお互いの自我状態の認識と、相手が持っている認識が一致しているということです。このような場合、交流は延々と続きます。
②交差的交流
交流するもの同士が自我状態についての認識の食い違いがある場合です。
例えばAさんとBさんが仕事について昨年度の振り返りをしています。
AさんはBさんと客観的に議論して改善を図ろうとしています(A同士で話そうとしている)。しかしBさんは、Aさんから言われたことが自分への批判だと捉えてしまうとしましょう(CPからACへの命令だと捉える)。
こうなるとAさんとBさんの交流はうまくいかなくなります。
このように、互いの自我状態の認識と、相手が持っている認識が一致している場合、交流は遮断されてしまいます。
③裏面的交流
表面的には相補的交流だが、お互いに心理的には別の自我状態を想定している場合です。バーンは抑圧的な夫とそれに不満をもつ妻の例を挙げています。
例えば表面的には(社交レベルでは)以下の交流があります。
夫「お前は家にいて、家の面倒を見るんだ」(PからCの交流)
妻「あなたさえいなければ、私は楽しめるのに」(CからPの交流)
しかし心理的には(裏のレベルでは)以下の交流があるとしましょう。
夫「俺が家に帰る時、お前はいつもここにいなければいけない。俺は見捨てられることをとても恐れている」(CからCの交流)
妻「対人恐怖症の私をかくまってくれるのであれば、私は家にいるわ」(CからCの交流)
エリック・バーン『心理療法としての交流分析』
このように人のコミュニケーションを、自我状態に関連づけて三つに整理しました。
3. 心理ゲーム
以上のような三つの交流はいつでもどこでも生じています。
しかし他人との交流で注目すべきことの一つは、「心理ゲーム」です。
他人とやり取りをしていて「この人とはいつもうまくいかない」とか
「なんでもいつもこうなってしまうんだろう」とか思うことはないでしょうか。
つまり、交流の果てに否定的な感情(交流分析ではこれを「ラケット感情」と呼びます)に行き着いてしまうということです。
皮肉なことですが、バーンによれば、「人は自ら望んでラケット感情を手にする交流を選んでいる」というのです。はたして本当でしょうか?
にわかに信じられませんが、以下で説明をしてみましょう。
①ストローク
そのためには「ストローク」という概念を理解する必要があります。
ストロークとは、人が生きていく上で必要な「他人からの刺激」を指します。
「真っ暗で音が聞こえない空間に長時間いると人は狂う」という俗説(科学的根拠もありますが)を聞いたことがあるかもしれません。そこで示されているのは、人は外的な刺激を受けないと「正常」でいられないということです。
このように生きていくための心理的な刺激をストロークといい、
人々はこのようなストロークを常に求めていることになります。
当然プラスのストローク(承認されたり褒められたりすること)が欲しいのですが、
プラスのストロークが得られないと、マイナスのストローク(怒られるなど)をわざと求めてしまいます。心理的に言えば、無関心でいられるより怒られたい、比喩的に言えば、まずい飯でも飯は飯、といったところでしょうか。
②心理ゲーム
さきほど、「人は自ら望んで否定的な感情(ラケット感情)を手にする交流を選んでいる」という、バーンの逆説的な主張を紹介しました。
ストロークの考え方に基けば、この主張を受け入れやすいかもしれません。
補足して言えば、
「人はプラスのストロークが得られないとおもったとき、仕方なくラケット感情をもたらすようなマイナスのストロークを他人から引き出すようなコミュニケーションをとる」ということになります。
そしてこのようなコミュニケーションを「心理ゲーム」と呼ぶのです。
例えば以下のような交流が心理ゲームです。
生徒「もっと成績をあげたいんですけど」
先生「では、テスト3週間前から勉強を始めてみては?」
生徒「はい、でも部活の試合がテスト1週間前まであってすごい忙しいんです」
先生「そうか。じゃあ、学校の授業でなるべく理解を深めるべきだね」
生徒「はい、でも弟が小さくて夜なかなか寝れなくて授業中集中できないんです。はあ、やっぱりだめかな・・」
これは"Yes, but"のゲームと呼ばれています。
テストに対してひたむきにがんばってストロークを得ることが難しいと思っている生徒は、
「テストに向けて周りの環境に苦しめられている生徒」としてストロークを得ようとしてしまっているのです。
こちらの例を先ほどの「交流」の枠組みで見てみると、
生徒はAで表面的には話していますが、心理レベルではCで話しているので、裏面的交流をしていることになりますね。
つまり心理ゲームとは「裏面的交流が習慣化したもの」ということになります。
バーンは、"Yes, but"ゲーム以外にも、このような心理ゲームの分類を数十行なっています。
イアン・スチュアート『エリック・バーンの交流分析』
最も代表的な入門書のようです。たしかにわかりやすくまとめられていました。
4. 脚本
さて、個々の自我状態の分類から、
それに基づく交流、そして裏面的交流が習慣化したゲームまで見てきました。
バーンの議論はさらに拡大していき、
「心理ゲームは、個々人が持つ人生脚本(Life Script)の一部である」という認識に至ります。
脚本とは人生を方向づける大きなストーリーのことです。
バーンが挙げている例の一つに、
アルコール依存症の父親に育てられた娘が出てきます。
この娘は成人してから次々にアルコール依存症の夫を作り離婚を繰り返します。
幼少期から「アルコール依存症の男性を私が支えなければいけない」という経験をしたこの女性は、人生の全体的な方向づけさえもこの経験に規定されてしまっているということです。
ここまではっきりとはいかなくとも、幼少期の経験は人生の方向づけに大きく影響しています。
例えば幼い頃に「〜するまでは・・しちゃだめだよ」と育てられた人は、
「親に楽させるまでは結婚しない」と考えるようになったり、
「今楽しいからって油断するな」と育てられたひとは、なかなか人生を楽しめきれなかったりするのは、想像がしやすいかもしれません。
バーンによると、
交流分析の治療の大きな目的のうちの一つは、
この無意識の人生脚本を意識することで、人生脚本をコントロール下におき、
新しい脚本で人生を再スタートさせることです。
これは冒頭の自我状態でいうと、PやCといった過去に関係のある自我状態ではなく、
「いまここ」の現在の自我状態であるAに主導権を握らせるということになります。
バーンは無意識を探求したフロイトと、未来志向のアドラーを統合したとよく言われますが、このあたりにその所以の一つがあるのかもしれません。
杉田峰康『教育カウンセリングと交流分析』
日本における交流分析の第一人者の杉田峰康が、
「いじめ」「不登校」などの教育課題について交流分析を応用して議論をした著書です
【塾の文脈での読直し】
さて、フロイト・アドラーに並び立つ精神医学界の権威、エリック・バーンを読みました。
どのように日々の仕事に活かせるでしょうか。
どうしても抽象的に言い方になってしまいますが、
「生徒理解」ひいては「人間理解」のための枠組みとして
交流分析が大いに使えると思いました。
これまで書いてきた色々な記事で触れてきたポイントが、
バーンの理論の中では一貫した理論体系の一部として見出すことができます
(見方を変えれば、バーンの理論は一つでたくさんおいしい理論ということになります)
例えばエリクソンの記事で、子供は発達の中で二者択一の課題に直面し、
その課題への対処如何によってアイデンティティが固まる、という考え方を紹介しました。
バーンはP・A・Cの自我状態のそれぞれの力関係が発達の中で固まってくると言いますが、この点はエリクソンの議論と通じています。
またアドラーの記事で取り上げた「劣等感コンプレックス」はバーンの”Yes, but”ゲームににていますし、「ライフスタイル」は「人生脚本」とかなりの点で似通っています。
「本心と口に出していることが違う」ことについてのアドラーの解釈と、バーンの裏面的交流についての自我状態の解釈もあい通ずるところがあります。
「子供は自我形成の過程で、親をモデルとして取り込む」という考え方も、
Pという自我状態がだれにでも存在しているというバーンの考え方と整合性があります。
さらにバーンはこれらのような「人間」に関する議論に加えて、
それをベースにコミュニケーション論、すなわち「人間関係」に関する議論を展開していました。(精神疾患の患者との関わりの中で生まれた議論なので当然といえば当然ですが)
そのためより実践的に活用がしやすいものになっていると思います。
例えば自分が他人と話している時に
「あ、いまは自分はPにひっぱられて話してしまっているな」や
「この生徒はいま心理ゲームをやろうとしているな」といった気付きがもたらされ、
実際のコミュニケーションを改善することができます。
さて、このように理論的にも実践的にも優れた交流分析を見てきました。
今回ベースとして紹介した書籍はバーンの初期の著作です。
後期の著作も含め翻訳もいくつかあるため、
より深く学んでいく価値のあるものだと思わされました。
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