教育思想史⑩アルチュセール『再生産について』(1995、邦訳2005)

こんにちは!Freewillトータルエデュケーションの井口です!


今回はルイ・アルチュセール『再生産について:イデオロギーと国家のイデオロギー諸装置』とりあげます。『教育思想史』(有斐閣アルマ、2009年)の参考文献から選びました。


【概要】

 

ルイ・アルチュセールは戦後フランスを代表する哲学者で、

以前にもとりあげたフーコーの8歳年上、ブルデューの12歳年上で、

フーコーやブルデューに大いに影響を与えた人物です。


冷戦が終わるまで、最も影響力を持った哲学の一つである、

マルクス主義哲学(共産主義思想の起源であるカール・マルクスの打ち立てた哲学)の最大の理論家であるアルチュセールの本書は、

アルチュセール哲学の成熟期に書かれたものです。


本書の結論を一言でいえば、


「労働者が資本家に対して革命を起こさず、

資本家による搾取がずっと続いているのは、学校のせいだ」


といったものです。


労働者による革命を目指したマルクス主義の文脈で、議論を深めていることがわかります。


1. アルチュセールの視点

 

さて本書のタイトルにもなっている「再生産」とはそもそも何をさすのでしょうか。

再生産は、辞書的な意味で言えば、「同じものの生産を継続して繰り返すこと」です。

例えば、米農家が毎年毎年米を生産するようなものです。


しかしアルチュセールが特に焦点を当てるのは

生産諸関係の再生産」、

すなわち「同じような生産諸関係が作り出され続け、継続していく現象」です。



ルイ・アルチュセール(1918年10月16日 - 1990年10月22日)



さて、「生産諸関係」というわけのわからない言葉が出てきました。

アルチュセールは彼の初期の思想において、

カール・マルクスの哲学に傾倒していたため、

「生産諸関係」というのもマルクスの用語です。


一応マルクスの用語を確認しておきましょう。


2. 生産様式=生産諸力+生産諸関係

 

マルクスにおいて生産諸関係とは、「生産を行う際に人々が取り結ぶ関係」のことで、

資本主義における生産諸関係は「資本家に労働者が従属している関係」のことです。


資本家は工場や機械やお金などの生産手段を持ちますが、

労働者はこういった生産手段をもたず、資本家に従属します。

生産諸関係は資本主義においては従属関係ですが、

他の時代や経済システムでは、別の関係(例えば対等な関係)をとることも考えられます。


この生産諸関係の中で、

生産手段と労働力(これをまとめて「生産諸力」と呼びます)が用いられ、

生産が行われます。


そしてこの生産諸関係と生産諸力をまとめて「生産様式」と呼びます。

<生産様式=生産諸関係+生産諸力>ですね。


生産様式とは、「人間が自然にはたらきかけ、生きるための財貨を得るやりかた」のことです。農業などを考えるとわかりやすいですね。

歴史を通じていろいろな生産様式が登場してきて、

現代社会における生産様式は資本主義的生産様式である、

という歴史認識をマルクスはもっていました。


さて、やっとマルクスからアルチュセールに戻ってきます。

アルチュセールが「生産諸関係の再生産」というとき、

<生産様式=生産諸関係+生産諸力>

という等式の中の、「生産諸関係」のことを意味しているのです。


3. 生産諸関係の再生産

 

アルチュセールの説明によれば、

マルクスは生産諸力の再生産については分析してくれているが、

生産諸関係がどのように再生産されるか分析してくれいません。

(有名なマルクス『資本論』における、生産諸力の再生産の分析は、

そのまま「なぜ資本主義では労働者が搾取されるか」の分析につながっています)


このままでは、資本主義的生産様式が再生産されるプロセスについての理解が十分でなくなり、資本主義をかえていく(共産主義にする)ことができない、という問題意識ですね。


まずマルクスが分析したとされる生産諸力の再生産とは、

・生産手段である原料や材料はどうやって調達・流通するのか

・労働力をどうやって回復するのか(要は、労働者の体力がどう回復するのか)

という点についての分析です。


アルチュセールはこれに加え「生産諸関係の再生産」を分析したいと述べていますが、

それは資本主義の文脈に寄せて言い換えれば、

「労働者はなぜ資本家に大人しく従属し続けるのか」を分析するということです。


確かに考えれば、雇用者より被雇用者の数の方が圧倒的に多いので、

もし不当に搾取されているのであれば、

被雇用者が立ち上がって革命を起こすのが普通の流れに見えます。


なぜ大多数の被雇用者は少数の雇用者に対して従属し続けるのか。


アルチュセールは、マルクスの国家論をより深めながら、その答えを探ります。



カール・マルクス(1818年5月5日 - 1883年3月14日)

アルチュセールのちょうど100歳年上でした。


4. アルチュセールの国家論

 

マルクスの国家論をアルチュセールが深める際、以下のような区別を設けます。


国家=国家権力+国家装置

・国家装置=国家の抑圧装置+国家のイデオロギー諸装置


国家権力を実際に動かす時に用いるのが国家装置であり、

国家装置には、警察や軍隊など物理的な影響力(暴力)を持つ抑圧装置と、

物理的な強制力ではなく、メディアや学校など非物理的な影響力をもつイデオロギー諸装置がある、と考えます。


ちなみにここで「イデオロギー」とは、

「現実の人間関係に関する解釈」のことです。

例えば現実に労働者が資本家に従属しているとした場合、

それに対し、「まあしょうがない」という解釈(イデオロギー)を持たせるのがイデオロギー諸装置だ、ということになります。


5. イデオロギー諸装置

 

アルチュセールは、社会には公的なものも私的なものも含めると、多くのイデオロギー諸装置があると言います。


具体的には、

・学校

・家族

・宗教(宗教団体、教会)

・政治(政党)

・組合

・メディア

などです。


例えば、

「片方の頬を打たれたら、もう片方の頬を差し出しなさい」と教える教会は、

他人への従属を「愛」という言葉で塗り固めて正当化しているとされます。

これが宗教的イデオロギー装置です。

また政党は、「議会制民主主義に参加することで、社会をより良い方向に変えられる」という前提を持ち、労働者が自分達の手で議会外の革命を起こすことを抑制しているとされます。これが政治的イデオロギー装置です。


上に見るようにさまざまな装置があり、日常生活はイデオロギー装置に取り囲まれています。 教会に行くこと、学校に行くこと、新聞を買うこと、テレビのチャンネルを回すこと、映画に行くこと、競技場にいくこと、絵画を鑑賞すること、本を読むこと。


これらの社会的な活動の中で、我々は知らず知らずのうちにある特定の考え方を刷り込まれ、その考え方により、資本家への従属を疑問にも思わなくなってしまっているということです。



ルイ・アルチュセール『再生産について』(1995)



6. 国家のイデオロギー装置としての学校

 

アルチュセールは国家のイデオロギー諸装置の中で、現代の支配的な装置は学校だと言います。


例えば学校では、学力が高いことが良いこととされ、低いことが悪いこととされます。

その価値観を刷り込まれた子供は、「自分は学力が低いのだから、社会に出た後に劣悪な環境で働くことが分相応だ」(=資本家に従属するのも、まあ仕方がない)と思わされます。


ここまであからさまでなくとも、

教師のような上の立場の人のいうことを大人しく聞き続ける姿勢手に入れます。


このような刷り込みが、学校の場合は週に5~6日、1日8時間ほど行われる点で、

他のイデオロギー装置よりも支配的な効果を持っているとします。


このように学校のイデオロギー的な効果を分析することで、

冒頭に述べた結論、

「労働者が資本家に対して革命を起こさず、

資本家による搾取がずっと続いているのは、学校のせいだ」

という主張を導きます。


【塾の文脈での読直し】

 

さて、フランスを代表する哲学者アルチュセールを読みました。

本書は未完成の草稿をかきあつめて死後に発表されたもので、

それまでのアルチュセールの哲学的な歩みなどをわかっていないと、

なかなか理解しにくいものだそうです。



今村仁司『アルチュセール全哲学』

初期から晩期のアルチュセールの思想の変遷を詳しく辿ってくれている本です。



そのため、今回扱えたのは、アルチュセールの濃度をとても薄めた内容なのですが、

なんとか他の本なども参考にしながら、意義を考えてみたいと思います。


アルチュセールから感じたのは、


社会を変えるためには、社会の中の何を変えるかを深く考えなければいけない


ということです。すなわち変革の対象を明確にするということです。


あたりまえながら、社会を変革しようとすれば、

社会の構造を正確に理解していなければいけません。

機械の仕組みがわかっていなければ機械を修理できないのと同じです。


アルチュセールの国家論は社会構造の把握への一つのヒントだと思います。


国家権力と国家装置の区別は単に分析のためのものにとどまりません。

国家権力と国家装置が独立したものだとすると、

「国家権力が入れ替わっても国家装置が残存する」ことがわかります。

もっと言い換えると、

「だれが政権をとっても、生産諸関係を支えるイデオロギー装置は無傷のままだ」ということかもしれません。


例えば、労働者を率いた共産党が作り上げたソ連という国が、

人間の間の支配的な関係がなくなったかといえばそうではありませんでした(むしろ共産党の独裁国家でした)。レーニンが政権を取ってもスターリンが政権を取っても、人の人による支配はゆらぎませんでした。


労働者が国家権力を奪取したように見えたソ連でも、

人が人に服従するイデオロギーは無傷だったのかもしれません。


これフレイレが、「非抑圧者がは『人間化』されなければ、力を得ても抑圧者に変身するだけだ」と言ったことに似ている気がします。

社会を変えるのであれば、人間関係についての解釈、すなわちイデオロギーにメスを入れなければいけない、ということなのかもしれません。

平等な人間関係を、資本主義が成立する以前の遊牧民社会に求める論者が多いのも、こう言ったところと関係しているのかもしれません。

とはいってもアルチュセールは「自由で平等な個人の間の関係」というイデオロギーが、資本主義的経済過程を駆動するのだ、とも言っているのですが。


もし塾という民間教育から社会を変えるのであれば、生徒に対して、人間関係についてどのような解釈を持たせるか、ここが大事なのかもしれません。