こんにちは!Freewillトータルエデュケーションの井口です!
今回はパウロ・フレイレ『被抑圧者の教育学』をとりあげます。『教育思想史』(有斐閣アルマ、2009年)の参考文献から選びました。
【概要】
パウロ・フレイレはブラジル生まれの教育実践家であり、イヴァン・イリイチと同時代人で、イリイチにならぶ教育思想史上の重要人物です。
フレイレは20世紀半ばから後半にかけて、ラテンアメリカ各国で、貧困に喘ぐ農民を相手に、民衆教育に長らく従事しました。
貧農民と地主、そして独裁的な支配者という、上下関係が堅固な社会のピラミッドの中で、
教育から政治・文化革命を起こそうと考えたフレイレの思想は、
その後、途上国民衆に対する教育についての礎となり、
アメリカでは「批判的教育学」という一大潮流の源流となっていきました。
1. 人間化
フレイレは、貧農民を「被抑圧者」として捉え、
その抑圧状況を「非人間的」だと批判、その抑圧状況を逆転し、
「人間化」を目指しました。
(1)人間の本質:意識化
フレイレは何を目指したのでしょうか。言い換えれば、「人間化」、すなわち「人間的な状況へと改善する」ことを目指す時、フレイレの頭の中では、どのような状況が「人間的な状況」として描かれているのでしょうか。
それを知るためには、フレイレが「人間」というものをどのように捉えているかを理解する必要があります。
フレイレは人間と動物を比較することで人間の本質を抉り出そうとします。
フレイレによれば、客観的な世界、つまり我々の目の前に広がる世界に対し、動物は本能的に反射をするだけだが、人間は主観的に関わっていける、という点です。
目の前の現実(客観)を、それとして受け入れ適応していく(動物の本能的な反射)ではなく、目の前の現実(客観)を、自らの意思(主観)によって認識し、
その上で現実を自らの望むべき方向に変えていくのが人間である、ということです。
フレイレは、ヘーゲルやマルクス的な言葉を使い、この人間の本質的性質を「主観と客観の弁証法的合一」と呼んだりします。また、客観的な現実を主観的な認識によってとらえなおすことを「意識化」と呼びます。
目の前の現実に埋没しきるわけでも、
目の前の現実から目を逸らすわけでもなく、
意識化を通じ、目の前の状況を乗り越えるために行動をする
そんな人間像をフレイレは描いているのです。

パウロ・フレイレ(1921年9月21日 - 1997年5月2日)
(2)非人間的状況
しかし、フレイレが目の当たりにしていたブラジルをはじめとするラテンアメリカの現実は、このような「人間的な状況」からはほど遠く、貧農民が地主などにひたすら搾取され続けていました。
そして貧農民もその現実に対し、批判的な意識も持たず、ひたすら現実を受け入れ、適応しており、極めて「非人間的」な状況でありました。
フレイレからみればこのような貧農民の状態は「人間的」ではありません。
なぜなら、貧農民は目の前の現実に埋没せざるを得ず、現状に対して距離をとって批判をすることが叶わないからです。
主観(意識)が客観(現実)と距離を取れず一体になっている点では、貧農民と動物は変わらず、貧農民の状況は人間的ではないと言うことになります。
2. 抑圧と解放の構造:抑圧者/被抑圧者/解放者
では、このような非人間的な抑圧状況はどのように解放していけるのでしょうか。
それを考えるためには、抑圧と解放に携わるアクターの特徴を見ていかなければいけません。そのアクターとは、抑圧者、被抑圧者、そして解放者です。
教育現場に落とし込めば、抑圧者=親・国家、被抑圧者=生徒、解放者=教育者、ということになるのでしょうか。
(1)抑圧者
抑圧者とはフレイレの文脈では、地主などの支配層です。
貧農民に対する支配・搾取によって自らの生計を立てている社会階層です。
フレイレの議論の興味深い点は、これらの抑圧者をもある種被害者として捉えている点です。
すなわちフレイレは、「抑圧状況においては、被抑圧者だけではなく抑圧者さえも『非人間化』されており、抑圧状況の解放によって、抑圧者もまた『人間化』されるのだ」と議論をしています。
というのも、抑圧者である地主は、「モノ」の所有に取り憑かれており、その状況を意識化できていないため、「非人間的」であるからです。
貧農民を搾取することで手に入れる貨幣、土地、そしてそこに暮らす貧農民という人的資源。こういった「モノ」(フレイレはこれを「死んだ事物」などとも呼びます)に取り憑かれた抑圧者。彼らはあたかも「死体性愛」(ネクロフィリア)のように非人間化された状況だ、というのです。

パウロ・フレイレ『被抑圧者の教育学』
(2)被抑圧者
このような抑圧者から搾取され続ける貧農民が被抑圧者です。
(マルクスの議論における「資本家と労働者」の関係性が「抑圧者と被抑圧者」にスライドされたのがフレイレの議論です。)
この被抑圧者に関して、上でも見たように、現実に対して無批判的になっている点が指摘されますが、さらにフレイレの議論で興味深いのは、「被抑圧者も抑圧者を内包している」という点です。
つまり、被抑圧者にとっては、「より良い人生を送る」ことはすなわち「抑圧者(地主)になる」ということとして認識されているということです。生まれてこのかた、抑圧される貧しい自分と、抑圧をする豊かな抑圧者しか人間のモデルがなく、現状から脱却することがすなわち抑圧者にステップアップすることである、と捉えてしまうのです。(植民地主義の歴史を通じ、植民者のヨーロッパ人の文化に対する憧憬が民衆の心性に食い込んでいるラテンアメリカでは特に、上流階級に駆け上がっていくことが階層移動のモデルとされるそうです)
「自由・平等」をかかげたフランス革命がすぐに独裁に陥ってしまったことからしても、非常に頷ける指摘だと思います。
(3)解放者
このような非人間的な状況(抑圧者も非抑圧者も非人間化されている状況)に対し、介入をするのが、解放者です。
フレイレの文脈では、フレイレを含む貧農民への支援者(国内・国際NGOなど)や、場合によってはフィデル・カストロやチェ・ゲバラのような革命指導者のことを解放者といいます。
フレイレが解放者に求めることは、