教育思想史⑨フレイレ『被抑圧者の教育学』(1968、邦訳1979)

更新日:6 日前

こんにちは!Freewillトータルエデュケーションの井口です!


今回はパウロ・フレイレ『被抑圧者の教育学』をとりあげます。『教育思想史』(有斐閣アルマ、2009年)の参考文献から選びました。


【概要】

 

パウロ・フレイレはブラジル生まれの教育実践家であり、イヴァン・イリイチと同時代人で、イリイチにならぶ教育思想史上の重要人物です。

フレイレは20世紀半ばから後半にかけて、ラテンアメリカ各国で、貧困に喘ぐ農民を相手に、民衆教育に長らく従事しました。

貧農民と地主、そして独裁的な支配者という、上下関係が堅固な社会のピラミッドの中で、

教育から政治・文化革命を起こそうと考えたフレイレの思想は、

その後、途上国民衆に対する教育についての礎となり、

アメリカでは「批判的教育学」という一大潮流の源流となっていきました。



1. 人間化

 

フレイレは、貧農民を「被抑圧者」として捉え、

その抑圧状況を「非人間的」だと批判、その抑圧状況を逆転し、

「人間化」を目指しました。


(1)人間の本質:意識化

フレイレは何を目指したのでしょうか。言い換えれば、「人間化」、すなわち「人間的な状況へと改善する」ことを目指す時、フレイレの頭の中では、どのような状況が「人間的な状況」として描かれているのでしょうか。

それを知るためには、フレイレが「人間」というものをどのように捉えているかを理解する必要があります。


フレイレは人間と動物を比較することで人間の本質を抉り出そうとします。

フレイレによれば、客観的な世界、つまり我々の目の前に広がる世界に対し、動物は本能的に反射をするだけだが、人間は主観的に関わっていける、という点です。


目の前の現実(客観)を、それとして受け入れ適応していく(動物の本能的な反射)ではなく、目の前の現実(客観)を、自らの意思(主観)によって認識し、

その上で現実を自らの望むべき方向に変えていくのが人間である、ということです。


フレイレは、ヘーゲルやマルクス的な言葉を使い、この人間の本質的性質を「主観と客観の弁証法的合一」と呼んだりします。また、客観的な現実を主観的な認識によってとらえなおすことを「意識化」と呼びます。


目の前の現実に埋没しきるわけでも、

目の前の現実から目を逸らすわけでもなく、

意識化を通じ、目の前の状況を乗り越えるために行動をする


そんな人間像をフレイレは描いているのです。



パウロ・フレイレ(1921年9月21日 - 1997年5月2日)



(2)非人間的状況

しかし、フレイレが目の当たりにしていたブラジルをはじめとするラテンアメリカの現実は、このような「人間的な状況」からはほど遠く、貧農民が地主などにひたすら搾取され続けていました。

そして貧農民もその現実に対し、批判的な意識も持たず、ひたすら現実を受け入れ、適応しており、極めて「非人間的」な状況でありました。


フレイレからみればこのような貧農民の状態は「人間的」ではありません。

なぜなら、貧農民は目の前の現実に埋没せざるを得ず、現状に対して距離をとって批判をすることが叶わないからです。


主観(意識)が客観(現実)と距離を取れず一体になっている点では、貧農民と動物は変わらず、貧農民の状況は人間的ではないと言うことになります。


2. 抑圧と解放の構造:抑圧者/被抑圧者/解放者

 

では、このような非人間的な抑圧状況はどのように解放していけるのでしょうか。

それを考えるためには、抑圧と解放に携わるアクターの特徴を見ていかなければいけません。そのアクターとは、抑圧者、被抑圧者、そして解放者です。


教育現場に落とし込めば、抑圧者=親・国家、被抑圧者=生徒、解放者=教育者、ということになるのでしょうか。


(1)抑圧者

抑圧者とはフレイレの文脈では、地主などの支配層です。

貧農民に対する支配・搾取によって自らの生計を立てている社会階層です。


フレイレの議論の興味深い点は、これらの抑圧者をもある種被害者として捉えている点です。

すなわちフレイレは、「抑圧状況においては、被抑圧者だけではなく抑圧者さえも『非人間化』されており、抑圧状況の解放によって、抑圧者もまた『人間化』されるのだ」と議論をしています。


というのも、抑圧者である地主は、「モノ」の所有に取り憑かれており、その状況を意識化できていないため、「非人間的」であるからです。


貧農民を搾取することで手に入れる貨幣、土地、そしてそこに暮らす貧農民という人的資源。こういった「モノ」(フレイレはこれを「死んだ事物」などとも呼びます)に取り憑かれた抑圧者。彼らはあたかも「死体性愛」(ネクロフィリア)のように非人間化された状況だ、というのです。



パウロ・フレイレ『被抑圧者の教育学』



(2)被抑圧者

このような抑圧者から搾取され続ける貧農民が被抑圧者です。

(マルクスの議論における「資本家と労働者」の関係性が「抑圧者と被抑圧者」にスライドされたのがフレイレの議論です。)


この被抑圧者に関して、上でも見たように、現実に対して無批判的になっている点が指摘されますが、さらにフレイレの議論で興味深いのは、被抑圧者も抑圧者を内包している」という点です。


つまり、被抑圧者にとっては、「より良い人生を送る」ことはすなわち「抑圧者(地主)になる」ということとして認識されているということです。生まれてこのかた、抑圧される貧しい自分と、抑圧をする豊かな抑圧者しか人間のモデルがなく、現状から脱却することがすなわち抑圧者にステップアップすることである、と捉えてしまうのです。(植民地主義の歴史を通じ、植民者のヨーロッパ人の文化に対する憧憬が民衆の心性に食い込んでいるラテンアメリカでは特に、上流階級に駆け上がっていくことが階層移動のモデルとされるそうです)


「自由・平等」をかかげたフランス革命がすぐに独裁に陥ってしまったことからしても、非常に頷ける指摘だと思います。


(3)解放者

このような非人間的な状況(抑圧者も非抑圧者も非人間化されている状況)に対し、介入をするのが、解放者です。

フレイレの文脈では、フレイレを含む貧農民への支援者(国内・国際NGOなど)や、場合によってはフィデル・カストロやチェ・ゲバラのような革命指導者のことを解放者といいます。


フレイレが解放者に求めることは、


・被抑圧者に対して信頼をし、被抑圧者の思考力や知識をみくびらないこと

・解放者も自己を人間化していく必要があること

・被抑圧者に対して、一方的な指導をしないこと


です。


なぜなら、解放者が上から目線で大衆を率い、独裁的な抑圧状況を転倒させたとしても、結局は新しい独裁が生まれるだけで、非人間的な状況の改善にはならないからです。


革命が新しい独裁を多く産んだラテンアメリカの歴史を踏まえると、フレイレの議論には重みが感じられます。


3. 銀行型教育から問題解決型教育へ

 

では、解放者は、被抑圧者に対して具体的にどのような関わりをしていけば良いのでしょうか。ここから、書名でもある「被抑圧者の教育学」の内実を見ていきます。


(1)銀行型教育

まずフレイレは、自らが批判するタイプの抑圧的な教育を説明します。

それは「銀行型教育」(預金型教育、とも訳されます)です。


銀行型教育の特徴は


・被教育者をあたかも、「空の器」のように捉え、知識を伝達していく

・教育者と被教育者が明確に二分され、両者間の上下関係が明白である


という点です。

いわゆる我々がイメージする学校教育の姿かもしれません。


フレイレの文脈で言うと、例えばアルゼンチンの貧しい農民に対し、

アメリカから派遣されてきた農業指導員が綿花の生産方法を伝え、

農民をアメリカの穀物メジャーのサプライチェーンの中に取り込んでいくことも、

このような銀行型教育の一種なのだと思います。



里見実『「被抑圧者の教育学」を読む』

日本を代表するフレイレ研究者である里見実さんのこの本も、非常に参考になりました。



(2)問題解決型教育

銀行型教育は「抑圧のための教育」であるとフレイレはいいます。

貧農民は現実に対して距離をとり、現実を変革する力を与えられないからです。


フレイレがそれに対して「解放のための教育」として唱えるのは

「問題解決型教育」(課題提起型教育、とも呼ばれます)です。


問題解決型教育の特徴は


・被教育者を人間として捉え、その知識や考え方を尊重する

・教育者と被教育者を二分し前者から後者に知識を伝達するのではなく、教育者と被

教育者の間の伝え合いを通じ、新たな創造をしていく


といった点です。


(3)世界を読む

問題解決型教育で目指されるのはどういうものなのでしょうか。

それは、「被抑圧者が『世界を読める』ようになる」ということです。

これは上で述べた「意識化」とほぼ同じです。


被抑圧者が自分が置かれた抑圧状況を、距離をとって眺め、


・自分が搾取されていること

・自分の中に「内なる抑圧者」がいること、

・それらの改善のためには何を行うべきか


を認識することを目指すのです。



(4)具体的な方法

では具体的に、どのようなプログラムを組めば良いのでしょうか。

実際にフレイレが実践し、紹介しているプログラムは以下のようなものです。


①教育対象の村落に入り、人々と生活を共にする

②人々との対話の中で、特に人々が慣れ親しんでよく使っている「ことば」を収集する。

③それらの「ことば」の中で、抑圧状況を解く糸口となりそうなことばを選ぶ(この言葉たちを「生成語」と呼びます」

④生成語のつづりを教えたり、その上で生成語を音節に分け、音節を組み替えて別の言葉ができるのを確認したりして、識字教育をする

⑤生成語に関わる抑圧の現実を絵で描写したり、写真に撮ったりする(この過程を「コード化」といいます)

⑥コード化された資料(絵・写真)を人々と一緒に見て、それを人々に解釈してもらう(この過程を「脱コード化」といいます)



④において識字教育をすることで、農民達は、「文字」という道具を手にします。

文字は、現実からは切り離された記号であるため、現実から距離を取る「人間化」「意識化」をおおいに助けます。


また、⑤・⑥にて、農民達を抑圧する現実の一部を絵や写真で切り取り

それを見てもらうことで、同じく現実から距離をとる「人間化」「意識化」の一歩となります。


このようにして現実から距離をとり自らを見つめ直した農民達は、

その状況の改善にむかうことができるのです。




イヴァン・イリイチ(左)とパウロ・フレイレ(中央)は、

同時代を生きた、代表的な教育思想家です。


4. フレイレの議論の普遍性

 

フレイレの議論は、決して途上国の農民教育だけにとどまるだけではなく、

普遍的な射程を持つものとして構築されています。

フレイレが「教育は政治だ」というのも、教育が広い射程を持つことを示唆します。


このあたりの根拠は、以下の2つに整理できます。


(1)グローバル資本主義への対抗としての教育

上でアルゼンチンの綿花農家の話を具体例として挙げましたが、

そこにも現れている通り、農民を抑圧状況から解放することは、

グローバル資本主義に対する抵抗運動であります。


グローバル資本主義が全世界を覆い、

人々が資本の論理で作り出された欲望に惑わされ、

それに対して距離をとって批判的思考をできていない現状で、

フレイレの草の根的な活動は、より広い批判的射程を持っているといえます。



(2)公教育制度への対抗としての教育

フレイレは教育制度と教育を区別します(この辺りはライマーの記事でも同じようなコンセプトが出ていました)。国の教育制度は大きすぎて変えられないかもしれないが、貧農民教育のように、小さいところから始められる教育はあります。


・草の根レベルの教育を変えていき、人々に「世界は変革できる」と思ってもらうこと。

・世界の仕組みを知らせるのではなく、世界を変革してもらうようにすること。

・現実は歴史によって作られてきており、逆に言えば、未来もまた我々の手で作れるため未確定であると知ってもらうこと。


こういった教育は、教育制度(公教育)の外でも十分に行える、とフレイレは主張します。



【塾の文脈での読直し】

 

イリイチと並び、20世紀の教育思想を牽引したフレイレですが、

このスケールの大きい、かつ地道で力強い実践に根ざした議論でした。


この議論を生かすとき、単に


・抑圧者=親・学校の先生・国家

・被抑圧者=生徒

・解放者=我々


として考えることも可能ですが、当然直接適用できない面もあります。


とはいえ塾で働く身として、生かせるものを3つうけとりました。


1. 現代日本と「非人間化」

 

フレイレの議論は、あくまで20世紀後半の、

かつ途上国の、かつ農村での話のように見えます。

21世紀の、衰退しているとはいえ相対的な豊かな日本でどこまで通用するのか。

そのように思って読み始めました。


しかし、「現状を受容し、単に反射的に適応し、現状に対して無批判的である」という、

フレイレの描く被抑圧者は、見方によっては日本の若者のことを的確に描写しているようです。


当然、戦後復興の中で貧しさの中で明日への希望を絶やさないでいた若者に比べ、

1年間で数百万トン単位の食料廃棄をしている現代日本の若者が、

現状に対して批判的になれないのは自然なことだと思います。


しかし、グローバル資本主義の中で日本が徐々に衰退していく中、

現実を客観視し、見えない抑圧の手に対して批判をしていく力を養うことは、

個人としても国家としても必要なことのように思えます。


2. 現実から距離を取る

 

本記事の紹介文でも何度も出てきた「距離を取る」ということ。

フレイレは「ことばを教える」「絵や写真を見て議論をする」という方法をとりました。


本書を読みながら、たしかに言葉・絵・写真は、物理的に現実世界の引き写し(コピー)であり、物理的に現実世界から距離を取れるということを実感できました。

人間の客観視の能力が弱まっている非人間的な状況では、

無理矢理にでも現実との間に距離を作ることが必要なのだと思わされました。


生徒と話すとき、私たちは私たちの考えを押し付けるわけにはいきません。

それは倫理的に、ということでもありますが、実際的にも押し付けは効果を発揮しないことが多いです。


生徒達自身に私たちの考えを押し付けることではなく、生徒達に自分達自身の状況を客観的に見ることを手助けすれば、彼らが自ずとやるべきことがわかってくることが多いように思えます。我々の役割は、その客観視を助け、くもりなき眼で現実を見させる手助けなのかもしれません。


3. 「教えるー教えられる」という二分法からの脱却

 

フレイレの議論では、「教師」と「生徒」の分離は避けられます。

むしろ解放者(教師)が被抑圧者(生徒)から学び、自らを解放する。

その解放を見て被抑圧者が模倣をする。そんな姿が描かれます。


教師が知識をあらかじめ用意し、それを伝達する、と言うように「知識の創造」と「知識の伝達」を分離してしまうと、フレイレの理想の教育にはなりません。


生徒との対話の中で教師が学ぶ。それを生徒が模倣して学ぶ。

「模倣」をバンデューラのいう「モデリング」と捉えると、生徒が学び驚くためには我々が学び驚かないといけないと言うことなのでしょうか。


塾では生徒に対して教えることが主な業務になります。

生徒と共に学ぶ機会をどれぐらい作れるか。

各塾の経営状況や講師の属性にもよりますが、その機会の存在を意識するかしないかで大きな違いになりそうです。





さて、イリイチと並ぶ巨星、フレイレの主著を読みました。

フレイレのいきいきとした文章をねじまげてしまっていないか心配ですが、

読むことで自分自身がいきいきしてきたのを実感しています。


ここで書いたことに背かないよう、

自己と他者が人間になれるよう、精進していきたいと思いました。