教育思想史⑧ライマー『学校は死んでいる』(1971、邦訳1985)

更新日:6月30日



今回はエヴァレット・ライマー『学校は死んでいる』をとりあげます。

『教育思想史』(有斐閣アルマ、2009年)の参考文献から選びました。


【概要】

 

エヴァレット・ライマーはアメリカ生まれの教育理論家で、特にラテンアメリカ諸国の教育に深く携わっていた人物です。イヴァン・イリイチの盟友ともいうべき存在で、イリイチの記事でも紹介した「脱学校論」の中心的論者です。


この本はライマーがイリイチで1956年に出会ってから15年続いた対話から生まれてきた本で、脱学校論の中心的な文献になっています。


1. 学校と教師の機能

 

学校の機能

学校は4つの機能が担わされてる、とライマーはいいます。

・子供の保護監督

・学力による子供の選別

・子供への価値観の植え付け

・子供への知識の伝達

の4つです。


一つ一つはどこかで聞いたこと・読んだことがある内容ですが、

面白いのは、4つの機能の優先度についての議論でした。

すなわちライマーによれば、学校の諸機能のうち「子供への知識の伝達」が最も優先度の低いもので、残り3つの機能に対してコストを払った上で余力で行うものであるのです。


世間的には最も優先度が高く、学校の本質とされている「子供への知識の伝達」がこのように描かれるのは興味深いです。


教師の機能

この中で教師の機能も生まれてきます。かつては子供をとりまくいろいろな人に割り当てられていた機能が教師に集約している、とライマーはいいます。


その機能とは、

・子供の世話を焼いて保護監督すること

・子供に強制力をもって接すること

・子供に知識を教えること

です。


教師が学校において全能たる存在であるのは、上記の三つの役割を全て兼ね備えているからだ、とライマーはいいます。教師の全能感、その裏返しとしての子供の無能感は学校教育の特徴の一つでもあるので、その背景にこのような機能の集約があると気付かされます。



エヴァレット・ライマー(1910–1998)


2. 学校と儀式

 

上のように、実は隠れた面がある学校ですが、このような面をどのように隠しているのでしょうか。


ライマーはそれは「儀式」によるのだ、といいます。ライマーの定義では儀式とは、「理念と現実の乖離を覆い隠すために行われる言説・活動」のことです。


ライマーは教会の例をだします。

キリスト教の理念では隣人愛が説かれますが、当然ながら現実のキリスト教徒には利己的な人も数多くいます。つまり理念と現実が乖離しています。しかしそんな利己的なキリスト教徒でも、毎週日曜日に礼拝にいくという儀式をこなせば、特に自分に罪悪感を感じずに立派なキリスト教徒としてすごせます。このように儀式は理念と現実の乖離を覆い隠します。


翻って学校はどうでしょうか。

学校では、学習機会均等、人間の自由、人類の進歩、生産力の拡大などの理念が前提となっています。しかし現実には、家庭環境の違いによって機会は均等ではなく、差別や抑圧は世界中で見られ、「進歩」や大量生産に伴って環境は汚染されています。


この理念と現実の乖離はどんな儀式によって覆い隠されているのでしょうか。

それはライマーによれば以下のように説明されます。

・学校内外で、一人一人ペースは違えど、進級・進学・就職・昇給・社会的地位の上昇といった「はしご」を登ることで、「このはしごは全員に均等に用意されている。登るペースが違うのは、努力や能力の差にすぎない」と錯覚させる

・定期的に行われる政治参加(選挙等)や、散発的ではあるが抑圧をあばきたてるメディアの活躍などにより、「我々は自由な社会を生きている」と錯覚させる

・学校のカリキュラムを、学問の進歩に応じてアップデートし、「知識は常に新しく、正しい方向に向かっていく」と錯覚させる

・学校/社会でも、いろいろな活動(クラス活動、宿題、テスト、クラブ活動/仕事)に従事させることで、深刻な問題から目を背けさせる

3. 制度依存させられる子供

 

このように、学校が子供を囲い込み、儀式によって本質的な機能を覆い隠していくと、

子供の「制度依存」が生まれます。


つまり、「勉強は学校という制度の中でしか行えない。そこで良い結果を残さなければ社会で生きていけない」と思わせるということです。このあたりはライマーの盟友であるイリイチの議論とほぼ重なると思います。


さて、このような学校は、果たしてどのような力によって支えられているのでしょうか。

ライマーの視点では、社会において技術や生産力を独占している人々によって、

学校が上記のような形にされ、そしてその本質的な機能が覆い隠されています。

特権階級が常に特権を失わずにいるために、子供を制度依存にさせているということになります。

このあたりはブルデューバーンステインとほぼ同じ視点になっていると思います。



エヴァレット・ライマー『学校は死んでいる』

5. 制度依存からいかに抜け出すか

 

ではこのような制度依存からどのように抜け出せばよいのでしょうか。

それこそが「教育」の役割だ、とライマーはいいます。

「学校教育」とは区別される「教育」によって、子供を制度依存から抜け出させるということです。

ブラジルの貧農への識字教育を通じて、地主支配への革命を模索したパウロ・フレイレの例を頻繁に挙げながら、ライマーは教育を

「(子供が)自分を取り巻く世界を理解し、そこに対して効果的な行動を起こせるように導くこと」と簡潔に定義しています。(もちろん、対象は子供以外のこともあり得るとは思いますが)

フレイレに導かれた農民たちが、自分達がいかに地主に搾取されているかを識字教育を通じて認識し、それに対する解決策を模索するなかで学びを深めていったように、

ライマーも「自分達の問題を解決するために必要なことを学ぶようにするべきだ」と述べます。


6. ネットワークの重要性

 

ライマーは上記のような教育理念を提示した上で、

その教育を実現するための教育資源はそこらじゅうにあるといいます。

しかしそれらの教育資源に対するアクセスが容易にできるように、

物や人のネットワークを作らなければいけないのだ、と述べています。

具体的には以下のようなことが挙げられていました。


・書籍やデータなどの記録物を整理・保存し、いつでも情報を参照できるようにする

・子供や大人など、人がさまざまな体験をできるように、移動を手助けするインフラを整える

・学ぶものと、学ぶ際にモデルとなるような当事者をつなぐ人的なネットワーク

・一緒に学ぶ仲間のネットワーク




パウロ・フレイレ(1921年9月21日 - 1997年5月2日)


【塾の文脈での読直し】

 

イリイチに続いてライマーを読みました。

ライマーもイリイチと同じ方向性で、教育を学校教育から解放することで、

社会全体の革命がもたらされる、という熱量の高い議論でした。


教育について学んでいくと、とかく教育の権力性について警戒するようになり、

教育の携わるものとして、教育の可能性を見失いがちになると思いますが、

学校教育と教育をしっかりと区別することで、あるべく教育の方向性を積極的に模索していけるのだと思います。

とはいいつつも、ライマーも述べている通り、学校が特権階級の道具なのであれば、

容易には教育を学校からとりもどせません。また、学校への制度依存がある社会では、

学校以外の方法で教育をすることも、社会が許してはくれません。

そのため、学校の補完機関としての顔を塾で確立し、しかし結果として子供を制度依存から解放するような、見方によっては面従腹背的な態度を取る必要があるかな、と思いました。


イリイチの記事では子供の学校制度依存をなくすために、

「学校での知識を社会に開く場が塾なのではないか」ということを書きました。

イリイチの記事で紹介した内容に比べると、

ライマーの議論では後半の「ネットワーク」の話など、

「知識を社会に開く」ための具体的な方向性がよく見えてくるな、とおもいました。