教育思想史③プラトン『国家』(邦訳1979)

こんにちは!Freewillトータルエデュケーションの井口です!



今回はプラトン『国家』をとりあげます。『教育思想史』(有斐閣アルマ、2012年)の参考文献からとりあげました。

【概要】


プラトンの著作は『メノン』の記事でも教育思想として取り上げましたが、

本書『国家』もやはり教育思想史の古典という位置づけだそうです。

本書のタイトルからは教育論であることが読めませんが、

教育論で名高い、18世紀の哲学者ルソーが主著『エミール』の中で


”これはいままでに書かれた教育論のなかでいちばんすぐれたものだ”


と評しているほどです。


1. プラトンにおける「教育の目的」


そもそもなぜ『国家』というタイトルのもとで教育が論じられているのでしょうか。

つまり、プラトンにおいて、国家と教育はどう関係しているのでしょうか。

それは以下の3点に集約されると思います。


(1)個人における「正義」を実現するためには、教育が必要だから

(2)個人における「正義」と国家における「正義」が似通っているから

(3)そして、教育を通じて個人の「正義」が実現されれば、国家における「正義」も実現されるから


自らの師ソクラテスが、都市国家アテナイによって不正にも死刑に追いやられたことを目の当たりにしたプラトンは、国家としての正義を実現する道を探る中で教育を論じることになっていったとのことでした。



プラトン『国家』


2. 国家と個人の正義


では個人における「正義」と国家における「正義」はどう似通っているのでしょうか。


2-1 国家の「正義」

プラトンによれば、国家を構成する人々は以下の3つに分けることができます。

①国家の行末を見定める「守護者」(要は統治者)

②①の指示にしたがって国家を防衛する「補助者」(要は軍人)

③国家に所属する個人の欲求を満たすための「生産者」(要は農民・商人・職人)

そして、国家をよいものにし、他国から防衛するためには、上記①〜③の人々がお互いの役割をはたすことが必要で、「守護者」の指示に「補助者」や「生産者」が従うことが国家における「正義」の実現であると考えます。


2-2 個人の「正義」

同じように、個人の魂の中には以下の3つの要素が存在します(魂の3要素)。

①「知」を愛する要素(要は理性)

②「気概的」な要素(要は情熱)

③ものを「欲求する」要素(要は欲望)

そして個人の「正義」を実現するためには、3つの要素が個人の魂の中でお互いの役割を果たし、「理性」の指示をうけた情熱が、欲望を節度あるものに保つことが必要であると考えます。


個人と国家の各要素を並べてみると「理性」が「守護者」と、「情熱」が「軍人」と、そして「欲望」が「生産者」と対応し、個人の「正義」と国家の「正義」が相似形にあることがわかります。



3. 個人の「正義」から国家の「正義」へ

では、国家の「正義」と個人の「正義」が実現されるためには何が必要でしょうか。

プラトンはその答えを教育に見出し、以下の①〜④の教育プロセスを提唱します。

①初等教育(0〜18歳)において音楽・文芸・体育を通じて魂の3要素のバランスをとるようにする

②中等教育(18〜20歳)として軍務への参加を通じ、国家の守護者としての実践経験を積む

③高等教育(20〜30歳)において、算術、幾何学、天文学などの一般教養を学ぶ

④高等教育専門課程(30〜35歳)にて論理学・弁証術などを含む哲学を学び、35歳から国家の実務に従事することになる。


そしてこの①〜④の教育プロセスの中で、次第に国民は選別されていき、

「生産者」になるもの、「補助者」になるもの、そして最終的に「守護者」となるものにわかれていきます(例えば「生産者」になるものは②以降には進みません)


この結果生まれてきた3種類の国民がお互いの役割を果たし、国家を防衛するのです。

そして当然、守護者の内部では3種類の要素がバランスよく整えられているということです。このように個人の「正義」と国家の「正義」が接続し、プラトンの体系が完成します。


4. 教育の本質:洞窟の比喩


このように①〜④の教育プロセスを経て個人の「正義」が達成されていきますが、

このプロセスの特徴というか本質を捉えているのが「洞窟の比喩」です。



「洞窟の比喩」

Wikipedia Commonsより引用)


上の画像の、一番左で鎖に繋がれているのが「現実社会の人間」です。

生まれた時から鎖に繋がれている彼らは、外からの光によって洞窟壁に映し出された影を「実物」だと思い込んでいます。あるとき鎖が解かれた人(「哲学者」)は洞窟から出て、真実の世界に触れます。初めは真実の「眩しさ」に目が眩むのですが、徐々に目を慣らし真実を知ったその人は、やがて洞窟に戻り人々に真実の世界について説明します。しかし、目の前の影を「実物」と考えてきた洞窟の中の人には到底その世界のことが信じられず、哲学者は受け入れられないことが多いのです。


このように、洞窟の外から中に連れ出すことを「教育」と考えており、

上記①〜④のプロセスを経て、真実に近づいていくためには、誰かが外から鎖を外してやらねばならない、というプラトンは考えます。


【塾の文脈での読直し】


さて、2400年も前の著作である本書から、何が読み取れるでしょうか。


1. 国家と個人


塾で目の前の生徒を教えていると、ややもすると社会のできごと、いわゆる「公共的なもの」への関心が薄れがちです。現代社会がどうなっていて、政治や経済がどうなっているのか、今の日本の課題はなにか、など、公共的な話題に関心を失いながら教壇に立つ教師が多いのは想像がつくのではないでしょうか。


しかし、プラトンによれば、国家(公共的なもの)の正義と、個人(私的なもの)の正義は相似な図形のように似通っています。個人と公共的な事柄は密接に繋がっており片方を無視はできないのです。


例えば簡単な例ですが、日本の政治に忖度が多いのは、個人の心の中にも忖度が多いからだとすれば、目指すべき教育の方向性が見えてくるかもしれませんよね(この例の是非はさておき)。


そのため、目の前の生徒たちをどのように育てていくかということを考えるためには、今日本という国がどのような欠陥に蝕まれているのかを考えなければいけないということにもなります。



プラトン(紀元前427年 - 紀元前347年)


2. 知識を支える気概


プラトンの「魂の三要素」については【概要】で説明をしましたが、この3要素を意識すると、「気概的な要素」を育てることが肝要であることがわかります。


勉強をしたくない、自分のやりたいことに浸っていたい。

そう思いながらその場限りの「欲望」に身を任せている生徒は多いと思います。


しかし一方でそのような生徒のほとんどは「理性」では「勉強した方がよい」と思っています。


そこで理性が欲望を節度あるものに保てる(=我慢して勉強できる)生徒とそうでない生徒の違いは何か。それが「気概」だ、ということです。そしてその「気概」を持たせてあげることが塾の役割なのでしょう。


もっと簡単に言えば、

「ほとんどの生徒は勉強やりたくないと言う一方で、勉強をやった方が良いと思っているので、塾の役割はモチベーションを上げてあげることだ」ということです。


プラトンのメガネを借りて生徒を見れば、やる気がないのではない、やる気を出してくれる存在を求めているだけだ、と解釈することができるのです。


欲望をある程度押さえながら理性の指し示す方向に向かっていくための「気概」、これは幣塾代表の柴山の唱える「セルフマネジメント」にもつながるのかもしれません。


3. 知識ではなく見方を教える 併走者としての教師

プラトンは「洞窟の比喩」を用いながら教育の本質について、

教育とは知識を注入することではない。人の向きを変えることだ」といっています。

言い換えれば、「洞窟の壁にうつる影についていくら教えてもだめで(=知識を注入してもだめで)、洞窟の外の世界に目を向けさせる(向きを変える)ことだ」ということです。


塾で言い換えれば、ある知識を教えるのではなく、世界の見え方を変えるということで教育の本質であるということでしょう。例えば日本史において、1925年の普通選挙法の存在を教えるのではなく、権利獲得の歴史における男女差別、その背景にあるジェンダー構造に目を向けさせる、などということかもしれません。


ここで面白いのは、向きを変えた人はあまりの光の強さに目が眩んでしまうものだとプラトンが述べていることです。これまで自分が「当たり前だ」と思っていた世界が、作り物に過ぎなかったと思った時、人は衝撃をうけるでしょう。しかし『メノン』の記事でも解釈したように、このような衝撃は、「真理」に向かう動機付け、言い換えれば更なる学習の動機付けにもなるのです。


プラトンは「洞窟の比喩」を述べる際、「鎖をほどく」「徐々に目を慣れさせる」といった他動詞的な表現を使い、真理に目を向けようとしている人をサポートする他人の存在を強く示唆しています。生徒の常識を覆し、生徒がうける衝撃に併走しつつ、さらなる知の世界にむけて生徒を後押ししてあげる、そんな教師のモデルがこの比喩からは伝わってくるのではないでしょうか。