こんにちは!Freewillトータルエデュケーションの井口です!
今回はプラトン『メノン』をとりあげます。
「はじめに」の投稿にあるように
今井康雄編著『教育思想史』(有斐閣アルマ、2009年)の参考文献から古いものを選んでみたら
『メノン』になりました。
【概要】
1. ソクラテスとプラトン
古代ギリシアのソクラテスは哲学入門書でもあるように、最初期の哲学者ですね。
しかし彼は書物を残さなかったため、現在に伝えられるソクラテス像は、
ソクラテスの弟子の一人プラトンが「対話篇」と総称される書物群に残したものに大きく影響されています。
今回読んだ『メノン』もその「対話篇」のうちの代表的な一つで、プラトンの著作でいうと前期から中期の過渡期に位置づけられるらしいです。
「対話篇」というのは、いわゆるかたくるしい「哲学書」のような内容ではなく、
ソクラテスと同時代の知識人が語らう対話形式の書物で、その対話の中でソクラテス(というよりプラトンが描く「ソクラテス」)のアイデアが語られていきます。
2. 『メノン』の主題とは
今回の『メノン』という題名は、主要登場人物の名前からきています。ソクラテスのもとに、ソクラテスのライバル哲学者の弟子メノンがやってきて、ソクラテスに質問(というより論争)を投げかけ、ソクラテスがそれに応答するという形で話は進みます。
プラトン『メノン』
メノンがソクラテスになげかけた質問とは「徳は人に教えることができるか」というものです。プラトンはソクラテスにこの問いに答えさせる中で「真理の想起説」を打ち出していくことになるため、哲学史的にも重要な著作ということらしいですが、教育思想という観点から言うと、「(真理が存在するという前提のもとで)子供を真理にどう導いていくか』という最重要テーマに直接関わる重要著作ということになります。
ソクラテス(プラトン)はメノンに「徳っていってるけど、それなんだとおもってるの?お前知ってるつもりで、何も知ってなくない?」と様々な形で問いかけます。そしてソクラテス(プラトン)は要は、「徳っていってるけど、メノンおまえ何も徳について知らないだろ。私も知らないよ。でも知らないようにみえて、実は人間は元々真理を知っていて、その真理を思い出す(想起する)ことができるんだよ」といっています。
【塾の文脈での読み直し】
さて、そこで『メノン』は塾の文脈で考えると何が示唆的なのでしょうか。
それは「生徒をもやもやさせたり、不安にさせたりすることも大事」ということなのではないかとおもいます(あまり想起説とは関係ない気がしますが)
なぜなら、この本では、対話相手(メノンなど)をもやもやさせ、「答えが知りたい」と思わせることの重要性が語られていると読むことができからです。
メノンやその使用人は、ソクラテスに何度も問いかけられます。
その中で「自分がこれまで真理だと思っていたものは、単なる思い込みにすぎない」ということに気づいていきます。
例えば次のメノンの言葉はそのような気付きをよく表していると思います。
"これまで私は徳について、実に何回となく、いろいろとたくさんのことを、数多くの人々に向かって話してきたものです。それも、自分ではとてもうまかったつもりでした。それがいまでは、そもそも徳が何かということさえ、全然言えない始末なのです"
ソクラテス(紀元前470年頃 – 紀元前399年)
ただここで面白いのは、
思い込みに気づいたメノンや使用人は「学びたい」という意欲、というよりも衝動にかられているようにみえることです。そして読者である我々は自然とメノンたちに自らを重ね、ソクラテスから答えを聞きたくなっていきます。
ソクラテス「君はどう思うかね。自分の無知をさとって行き詰まりにおちいり、それによって知りたいと思う気持ちになる以前に、知らないのに知っていると思い込んでいた事柄を、探求したり学んだりしようと試みるだろうか?」 メノン「そうは思えません。ソクラテス」 ソクラテス「してみると、しびれたことが、この子のためになったわけだね」 メノン「そう思われます。」
加えてここで面白いのは(「無知の知」で知られるソクラテスなので当たり前ですが)、ソクラテス自身が、メノンに対して答えを有していないということです。
メノン「ソクラテス、お会いする前からかねがね聞いてはいました。あなたという方は何がなんでも、自ら困難に行き詰っては、ほかの人々も行き詰らせずにはいない人だと。」 (〜中略〜) ソクラテス「(前略)ぼくは、自分では困難からの抜け道を知っていながら、他人を行き詰らせると言うのではないからだ。道を見失っているのはまず誰よりも僕自身であり、そのためにひいては、他人をも困難に行き詰まらせる結果となるのだ」
教育者が日々自分に問い続ける、考える続ける、悩み続けることで生徒たちの前提を崩し、新しい知への欲求へと共に向かっていく。これは
・子供の中に「無限の可能性」を見出しそれを押し広げていく教育思想
とも
・大人や社会の中に「不動の真理」を見出しそれを子供に伝えていくという教育思想
とも異なった、独特の教育思想であると捉えることができると思います。
プラトン(紀元前427年 - 紀元前347年)
『メノン』からひき出される、具体的な実践は
生徒の思い込みを一つ一つ問いによって解きほぐしていき、
「え、じゃあ正解はなんなんだろう・・?」
と思わせるということだと思います。
自分が正解だと思っていたことが崩され、不安になるという経験から
「知ること」への欲求が始まるのかもしれません。
以前、ある会話を生徒としたのを思い出します。
ソクラテスには遠く及ばないし、今振り返るとけちをつけたくなる会話ですが、
生徒の思い込みが少しは変わったという点でいうと、少しはよかったのかもしれないです。
最後に恥ずかしながらその会話を記して、1回目の投稿を終わろうと思います。
生徒「Aというやつが学校にいて、腹が立ったんですよ」
先生「なんで、腹が立ったんだろう?」
生徒「それは、そいつが人を見下して、上に立とうとするからです」
先生「なるほど。ということは『上に立とうとする』のが嫌なんだね」
生徒「そうですね。下に見られたくないので」
先生「君の『下に見られたくない』というのは、Aくんの『上に立とうとする』というのとは違うのかな?」
生徒「違うと思います。僕の場合、『下に見られたくない』というより『対等でありたい』と言うことだと思うので」
先生「なるほど。例えば君は『イチローと対等でありたい』と思うかな?」
生徒「いや・・そんなことは考えたことがないですね。比べるものじゃないというか・・」
先生「そうだね。先生もそう思うよ。人は、関係性が近い人と自分を比べたがるのかもしれないね」
生徒「なるほど」
先生「そのAくんも、君と関係性が近く、君に劣等感を抱いているから、必死で『下になるまい』『対等になりたい』と行動してるだけかもしれないね」
生徒「じゃあぼくもあいつも同類ってことですか?」
先生「同じ土俵で戦っているという点ではね。でも別にこれが悪いといっているわけじゃない。例えば先生も社内ではそういうときもあるし、そういう自分をどうしたらいいんだろうって悩む時もある。でも大事なのは『なぜ自分はこう思ったんだろう?』と見つめ直すことだと思うよ。よくよく考えてみると、
生徒「なるほど・・・よくわからなくなってきました」
先生「よくわからない。先生もよくわからないよ。だから勉強をするんだね。だから心理学という学問があるのかもしれないしね。いろいろな人がいろいろな答えをだしてるよ。」
生徒「なるほど・・」
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