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教育思想史②アリエス『「教育」の誕生』(1948−1978、邦訳1992)

更新日:2021年5月8日

こんにちは!Freewillトータルエデュケーションの井口です!


今回はフィリップ・アリエス『「教育」の誕生』をとりあげます。

『教育思想史』(有斐閣アルマ、2009年)の参考文献から選びました。アリエスといえば『「子供」の誕生』が有名ですが、手元にあったのが『「教育」の誕生』だったので、今回はこちらを読んでいきます(『「子供」の誕生』も注文済みなので近日中に)。


【概要】

 

本書では、主に6世紀ごろからの(英仏を中心とした)西欧の教育の歴史が綴られ、

現代(20世紀)の教育のありかたがどのように形成されてきたかに焦点が当てられています。


なかなかヘビーな内容なので、以下の二つのパートに分けて概要を整理してみます。


<1>アリエスはどのような問題に対して答えを出そうとしたのか

<2>アリエスの問いはなぜ重要か




フィリップ・アリエス『「教育」の誕生』



1. アリエスはどのような問題に対して答えを出そうとしたのか


比較的複雑な記述が多いですが、私なりに解釈してまとめると、以下のような2つの事柄を扱っていると読めます。


(1)「学校における教育」というものがどのように生まれてきたか(Howの問い)

①どのような過程を経て、教育の場が「社会」ではなく「学校」に限定されてきたか

②教育の場としてみなされた学校には、どのような役割が期待されてきたか(宗教的役割、人格形成的役割、実学的役割)


(2)「学校における教育」はなぜ生まれたのか(Whyの問い)

①「生」や「死」についてのメンタリティ(心性)が「子供」についての価値観をどのように変えたか

②近代の成長志向が「子供」についての価値観をどのように変えたか

③「子供」についての価値観が教育にどのような影響を与えたか


2. アリエスの問いはなぜ重要か


上記のように抽象的に書くと、いまいち問いの重要さが伝わらないと思います。


実際に本を読むと「現代の教育を考えるにあたって、当たり前の前提として見過ごしていることが多すぎる!」と衝撃を受けるのですが・・・。

そこで、アリエスの視点に基づき、少々解釈も混ぜながら、中世初期と現代を比較してみると、アリエスの議論の重要さ、言い換えれば「現代の異常さ」がわかるかと思います。


比較の視点は、「『人が生まれてから死ぬまで』はどのような過程を経るか」、という点です。


この視点から、以下に中世と現代を比べてみましょう。



中世初期まで(〜13世紀)

①夫婦の自然な生物学的営みにより、たくさんの「子供」が自然に生まれる(「〜人子供がほしい」などは思わない。自然に生まれるだけ生まれる。避妊という選択肢はまずない)

②たくさん生まれた「子供」は意図的に教育はされず、可愛がられない

③「子供」は年齢の低い段階から年齢の高い人間と同じ場所で生活し、同じ活動(仕事)に従事する

④「子供」が年齢を増していく中で、父親の仕事に適合する少数の「子供」を除いて、残りの「子供」は家庭から自然に追放される

⑤死は自然に宿命としてやってくる。延命という選択肢はない。


現代(20世紀〜)

①夫婦は社会経済的な考慮から、出産を計画する(恵まれない場合はあるとしても)。

②幸運なことに生まれた子供は寵愛及び教育の対象となる。

③子供時代は社会からは隔離され、「学校」という閉じた場所で学習に励む。学校には、「子供を良い人間にする」という人格形成的な期待や、「子供の将来役に立つ技能を与える」という実学的な役割が与えられる。

④子供は成人に伴い、家業に縛られることなく、一人一人の個性に合わせて将来を設計することが望ましいとされる。

⑤自分の人生を豊かにするため、長寿に価値がおかれる。


上記をみると、中世初期と現代とで、「子供」観や「教育」観に大きな違いがあり、数世紀の間に大きな変化があったことがわかります。

アリエスの本を読むと、中世初期から現代にかけて、このような大きな変化がどのように徐々に起こっていったかがよくわかります。


そういう本です。




フィリップ・アリエス(Philippe Ariès, 1914年7月21日 - 1984年2月8日)


【塾の文脈での読み直し】

 

アリエスの議論は衝撃的な部分が多く、考えるべきことは数知れないです。おそらく今後他の書籍に当たっていく中で、再び帰ってくることになると思います。


ただ今回注目したいのは、「子供が大人になることを難しくする構造的な理由」がアリエスを読むことで理解できる、ということです。

塾の文脈により近づけていうと、

進路指導がこんなにも難しく感じる理由」がよくわかる、ということです。



子供たちに将来の展望をきいても、彼ら彼女らはリアリティをもって想像できない、

目の前の学生的な日常が永遠に続くようにしか思ってもらえない、

そういった悩みをもつ学習塾の指導者は多いのではないでしょうか。


このような状況になる理由がクリアにわかれば、とるべき道が

ひらけてくるかもしれないと思います。



もちろん進路指導が難しいのには様々な理由があると思いますが、

(現代の)教育が子供達からリアリティのある将来構想を奪っている

ことが理由だとしたら、民間教育としての塾が果たす役割が見えてくるのではないでしょうか。


イリイチ『脱学校の社会』についての稿でも触れたテーマですが、教育が学校に限定されている(学校化)という現実があります。


これに加えてアリエスを読むと「学校化」という現象は非常に「歴史的」で「不自然」で人工的なことであると感じます。「歴史的」「不自然」というと誤解を生むかもしれないですが、要は「学校でしか教育が受けられないという理由は全くないのに、実際はそのような認識が時間をかけて定着・跋扈してきている」ということです。


そのような認識環境の中で、子供が大人になることは難しくなっていると思います。

職住近接ではなくなり、大人の活動に子供が全く参加しなくなった現代において、

大人としての自分をリアリティをもって想像できない子供が大量発生するのは当然です。


アリエスの歴史記述にひきつけて言い換えると、

大人の仕事の世界は中世以来(相対的に)あまり変わっていないのに、

子供の教育の世界は中世以来(相対的に)とても変わってしまったのです。

そのため、子供の世界である学校における教育内容を整えることに気を取られすぎ、学校と社会の接点が失われているのではないでしょうか。


大人の世界と子供の世界の距離が、教育によってどんどん広がってきてしまっていますだからこそ、二つの世界の橋渡しをするはずの進路指導もどんどん難しくなってきているかもしれないのです。


こう考えると学習塾の進路指導では、

子供が大人の世界を知るための情報をたくさん与え、

子供の世界と大人の世界を近づけることが必要になります。


例えば中学校でよく行われている「職業体験」にかわる形で、

学習塾が職業体験企画を提供することが求められます。


そのためには、単に企画を立てるだけではなく

自らの世界に固着する子供を連れ出すための信頼関係や

他業種との接点が求められます。

言い換えれば、一方で現場に深く根差すことと、

そして他方で塾の狭い世界に囚われないことの両立が求められます。


子供たちに将来の展望をきいても、彼ら彼女らがリアリティをもって想像できないとき、

このような観点から進路指導の質を高めていけばよいのではないでしょうか。

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