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教育社会学①イリイチ『脱学校の社会』(1971、邦訳1977)

更新日:2021年7月29日

こんにちは!Freewillトータルエデュケーションの井口です!


今回はイヴァン・イリイチ『脱学校の社会』をとりあげます。


『教育の社会学 -- 〈常識〉の問い方,見直し方』(有斐閣アルマ、2010年)から参考文献として選びました。いわずとしれた名著。一度読んだことがありましたが、改めて読み直しました。



【概要】

 

オーストリア出身の哲学者イリイチは要は「学校はやばい。人を無力にする」といっています。

学校は普通は「人に力を与える場所」として考えられることが多い中、

イリイチの主張は逆説的にみえます。

このほかにイリイチは「病院化社会」というアイデアも提出し(読んでいませんがおそらくは)「病院はやばい」という話をしています(予想)。



現代社会を鋭い視点で批判するイリイチは、その批判が最もクリティカルに突き刺さる学校をとりあげて、以下のような主張を行っています。

  • 学ぶことを「学校で先生に知識を教えられること」と同一視してしまっている

  • そのため、人は学校という制度に依存してしまっている

  • それは学校以外の制度に人が依存することにもつながる(例えば「健康を保つこと=病院に行くこと」「信仰すること=教会に行くこと、という同一化が生じる)

  • 社会はこのように「学校化」(Schooled)されている。人間の基本的な要求(「〇〇がしたい」)が制度が提供する需要に置き換えられてしまっている。

  • 学校のような制度ではなく、もっと個々人が自律的に自由に活動できるような「相互親和的」(Convivial)な制度を作るべきだ



イヴァン・イリイチ『脱学校の社会』




【塾の文脈での読み直し】

 

では改めて、塾の文脈で考えると何が示唆的なのでしょうか。


それは塾の役割を「学校で教えられる知識を社会に開く場所である」と捉え返すことなのではないでしょうか。


イリイチの学校批判は大きく分けると以下の二つに照準されているように思われます。

①「学ぶ」という能動的な行動ではなく「教授される」という受動的な行動が支配的になっている

②「学校でしか知識は学べない」という暗黙の前提(=「隠れたカリキュラム」)が受け入れられている


そしてそのため、社会全体が制度依存になってしまっているとイリイチは現代を診断します(これは、ハーバーマスが「生活世界」を支配する「システム」を強調したことに構造的に類似します)。



①と②について塾の文脈で読み直し、塾のあり方を箇条書き的に述べると以下のようになるのではないでしょうか。

  • たしかに、知識を得るというのは確かに制度(学校)に依存したほうが効率は良い

  • しかし「知識を得る」と「学ぶ」というのは分けたほうがよく、後者はいわゆる「答えのない問いと格闘する」ということであるとすると、

  • 「学び」は学校という画一的な場所で完結せず、知識を携えていろいろな人と出会い対話することによって可能になり、

  • 塾はそのように「人は人によって『学ぶ』」ということを実現する場であると捉えることができる




イヴァン・イリイチ(Ivan Illich、1926年9月4日 - 2002年12月2日)


もちろん、塾は学校の成績を上げ、進学を達成させることを第一義的なミッションとしています。

そのため、明示的なカリキュラムとして上記のような「学び」ということを組み込むことははなかなか難しいと思います。


しかし同時に、イリイチの批判を受け入れるとすれば、塾がただ単に学校の補助機関となってしまってはいけないように思われます。


そのため、生徒が学校や塾で頭に入れた知識を実際に社会の文脈でどのように適用できるか、自分が抱える答えのない問いと格闘するためにその知識をどのように使うか、ということを生徒と真剣に話し合うことが必要なのだと思います。


もし生徒が「学校で知識を得たけど、人と話してみるともっと気づきがあるんだな」と思ってくれれば、その生徒は将来、与えられた知識に依存せずに、自分から様々な人と関係を持ち、「学び」を続けてくれるのではないでしょうか。このようなことが塾の「隠れたカリキュラム」となれば、とても大きな社会貢献になるのではないか、そのように感じます。

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