top of page

教育思想史⑥ルソー『エミール(上)』(1762、邦訳1962)

こんにちは!Freewillトータルエデュケーションの井口です!


今回はジャン・ジャック・ルソー『エミール』をとりあげます。『教育思想史』(有斐閣アルマ、2012年)の参考文献からとりあげました。


教育学の古典中の古典、『エミール』にやっと取り組むことになりました。

本書は岩波文庫で上・中・下巻合わせて1300ページに及ぶ大作です。

コツコツ読んで上巻だけ(それでも549ページ)読了したので、その内容に即して紹介をします。

【概要】

 

ルソーは18世紀フランスに生きた哲学者・文学者・音楽家で、各方面で大きな功績を残しています。フランス革命(1789)によって発展した近代民主主義思想の大元はルソーの『社会契約論』ですし、近代文学の端緒として挙げられるのもルソーの『新エロイーズ』や『告白』です。

このルソーが自身の思想のある種集大成として著したのが本書『エミール』で、

教育というフィールドにおいて、ルソーの人間観・社会観が一貫して展開されています。


本書を中心としたルソーの影響はその後、18世紀から20世紀にかけて、ペスタロッチやフレーベル、デューイやキルパトリックなどの教育理論家・実践家に及びます。ルソーはいわゆる「子供中心主義」の元祖として考えられており、現代日本の「ゆとり教育」の源流になっていると考えられます。


ただデューイの記事でも似たようなことを書きましたが、ルソーの『エミール』を読むと

「本当に現代の『子供中心主義』者たちはルソーを読んだのか??」と疑いたくなるほどの内容でした。


以下にその内容について、特に考えさせられた部分を中心に見ていきます。



ジャン=ジャック・ルソー(1712年6月28日 - 1778年7月2日)



1. 前提としての、ルソーの人間観・社会観

 

とはいえ、ルソーの教育論に入る前に、人間や社会についてのルソーの基本認識を踏まえておいた方が良いかと思います。ルソーの人間観・社会観が十二分に現れた本が本書だからです。


本書で随所に現れてきて、他の著作でも繰り返し述べられるルソーの人間観・社会観は


「人は善いものとして生まれてきて、社会によって悪いものになる」


ということです。


人間がひしめく社会では、人の欲望が無理にかきたてられ、虚栄心や臆見がはびこっています。せっかく素直に生まれてきた人間も、社会に投げ込まれるやいなや、自然の中で感じる生存の喜びから逸脱し、充実した人生を歩めなくなる。


ルソーはそのように言っているのです。


「都市は人類の堕落の淵」だと本書でも述べており、

教育は都市という一般社会から遠く離れた自然の中で行うべきとルソーは主張します。


今流行の「地方移住」を本当に原理的に真摯に突き詰めていったのがルソーなのだと思います。



2. ルソーの教育目的

 

さて、そのように都市や社会を嫌うルソーが教育の目的とするものはなんでしょうか。

それは非常にシンプルで、


「他人にできる限り依存せず、変化する状況のもとで生存できる人間を育てる」



ということです。


そして、社会や都市で教育をしているとこの目的を達成できないといいます。

社会に生きている我々は現在、衣食住の多くを他者に依存して生きています。

ロビンソンクルーソーのように生きてはいません。

また我々は現在、「生存する」こと以上のことを求め、自らの欲望を肥大化させています。

日々SNSで他人とつながり、他人より秀でなければ不幸な思いがします。

欲しいものが手に入ったらまた別のものが欲しくなります。

生きているだけで十分なのに、必要以上の物を欲し、欲望の無限増殖に巻き込まれた結果、不幸になります。




ジャン・ジャック・ルソー『エミール(上)』


ルソーが「市民を育てるのではなく人間を育てるのだ」と言っていますが、

「市民(社会に生きる人々)」は他者に依存し欲望が肥大化しており、

「人間」とはもっとシンプルに生存のみを目的としてその手段を弁えている、

という対比をルソーは念頭に置いているのです。


ルソーは同時代のフランス貴族たちにむけて本書を書いたことを前提とすると、

貴族のように他人に依存して余計なことで張り合っている人間たちの社会から

子供たちを守ろうとしたのかなとも思えますが、現代日本の多くの人にも当てはまる指摘なのではないでしょうか。


3. ルソーの方法

 

ではどのような方法で教育をするのか。

ルソーの中には、大きく分けて二つの方向があると思います。


①自然に子供を直面させ、観念ではなく経験によって学ばせる

これについては本書で様々な実例が挙げられていますが、

「太陽の日周運動」の例だけここに書いておきます。

太陽は東から上り西に沈みますが、それを子供に教えるとき、

天球や模型、教科書だけを使うことをルソーは勧めません。

実際の事物ではなくそのモデルや言葉(記号)によって観念を頭に入れても、

何の役にも立たないからです。


ルソーはむしろ、

子供と森を散歩をし、二人で迷子になって子供が混乱している時に

「今は12時だね。太陽の位置をみれば、村に戻るために進むべき方向がわかるかな?」

と子供に問いかけることを勧めています。


子供は生存のために自然と格闘する中で様々な経験をしますが、

その経験があって初めて、「太陽の日周運動」という観念が頭に入るということです。


同じ文脈でルソーは

「わたしは子供に最大の不幸をもたらす道具、つまり書物をとりあげてしまう

ともいいます。経験なく観念だけを膨らませてしまうことに反対しているのですね。


「自然が教師だ」というルソーの言葉はこのようなところから来ています。


②社会からの影響を排除する

これだけ見れば、「知識は日常生活と一緒に学ぼう!」という普通の話

(といってもルソーがある種元祖なのだと思いますが)に聞こえますが、

ルソーの方法論のもう一つの観点、「社会からの影響を排除する」という点も併せて考える必要があります。

上に書いた通り、ルソーにとって社会は敵です。

社会は人間が一人きりではできないことまで可能にし、

結果として生存の必要以上の欲望を人間に抱かせ、

最終的に人間を不幸にするのです。


そのため、その社会の影響を排除するため、ルソーは


「子供が生存の必要以外の原因で何かを求めているとき、キッパリと拒絶しなければいけない」


といいます。


子供がいくら泣き叫んでも、それがお菓子を得るためであれば、ルソーは無視します。

子供が自分でできることを他人にしてほしいからといって喚き散らしても、ルソーは無視します。子供を社交界の豪華な食事に連れて行くことにも反対しますし、冬に水を飲む際に水を温めるという貴族社会の習慣にもきっぱりとNOをつきつけます。


これらの行動や要求が全て自然に反しており、生存の必要にとっては関係がなく、

子供が自分の問題を自己解決する力を奪ってしまうことだからです。


社会(他人)によって欲望を膨らまさせられ、一方で自分で物事を解決する能力を失わされる。結果、欲望が大きいのに能力は小さくなってしまう。達成できない欲望が大きくなり、欠乏感に常に苛まれる。


この欠乏感をルソーは「不幸」と呼んでいます。

なんだか仏教の「知足」みたいな話ですね。



ジャン・ジャック・ルソー『人間不平等起源論』

ルソーの社会敵視が特に詳しく書かれた著作です。



このようなルソーの方法論で育てられた子供は、

体は健康で、必要なもの以外は求めず、他人に対する競争意識や優越意識もなく、生存に必要な能力(衣食住を自分で賄う能力)を持っています。


ルソーは尊敬されるべき職業として、第一に農業、第二に鍛冶屋、第三に大工をあげていますが、全て「手に職をつけ、生存のために必要なものを作る」という点で共通しています。



【塾の文脈での読直し】

 

さて、今から260年前の教育論を読んで、生かせることはなんでしょうか。


2つあるかと思いました。


1. 思想の源流をつかむことの重要性

1つ目の教訓は、「思想の源流をつかむことの重要性」です。


ルソーは冒頭に述べた通り「子供中心主義」の源流とされます。


しかし、ルソーは決して

「子供の好き勝手にやらせてよい。子供には無限の可能性がある」とは言っていません。


そうではなく、ルソーの思想は

「子供を社会から守る」という消極主義

「子供を自然の現実に直面させる」という現実主義の混合です。

現実主義の中では、かなり厳しいことを子供に課しているのです。


現代の俗流「子供中心主義」ではこの二つの視点がしっかりと理解されていないように思えます。流行の言説は、その源流を見ると、全く姿が違うということはよくありますが、教育思想・言説の場合もそうだったことがわかりました。 誰もが口にできる教育言説だけに、これからも言説の源流には気を付けていきたいです。



秋葉英則『子どもの発見 教育の誕生』

こんな本もありました。「源流」としてのルソーが描かれています。

ペスタロッチやフレーベルがルソーの影響をどのように受けたかがわかります。


2. 子供放任の「文脈」をとらえる:子供・社会・自然

しかし源流をおさえることはなぜ大事なのでしょうか。

おそらくそれは、「文脈」的に考えるためです。


ルソーが子供をある程度子供の自主性に委ね、子供の放任を推奨できたのは

1700年代の田舎で森の中で育てることを前提にできたからです。

(ちなみにルソー自身は自らの子供を孤児院に送っているので、

本書は家庭教師としての経験で書かれています)

社会から隔絶された場所で子供を放任し、子供は自然に直面して生存のために四苦八苦して学んでいく。そういうモデルを前提としてルソーは考えているのです。


そういった前提条件や文脈抜きで、

現代に子供の自主性に委ね、放任をしたらどうなるでしょうか。


現代社会では、「自然」に直面することは少なくなっています。

衣食住には困らず、欲しいものはある程度手に入ります。

自分が生きて行くために必死に考えなくともなんとかなります。

子供は放任しても自然に直面して生存に四苦八苦せずに済みます。


一方で「社会」には欲望が溢れており、

手元の端末一つで欲望を一時的に充足できます。

この中で子供を放任してしまったらどうなるのでしょうか。

容易に想像がつくのではないでしょうか。




ルソーを読むことで、教育を

「子供」「社会」「自然」の三項関係で考えることを教えられました

(「教師」もいれれば四項関係ですが、ルソーにとっては自然が教師です)。


これら三つの関係がどうなっているのかは時代によってかわるでしょう。

その中で子供の自主性を委ねることが良いことなのかどうか、

吟味をしっかりとして行くべきだと思います。



社会から子供を守らなければいけないが、自然には直面させなければいけない。

生の自然を失った現代では、ある種我々教育関係者が、

第二の自然として子供たちの前に立ちはだからなければいけないのかもしれません。

bottom of page