教育社会学⑤デュルケーム『教育と社会学』(1922、邦訳1982)

こんにちは!Freewillトータルエデュケーションの井口です!



今回はエミール・デュルケーム『教育と社会学』をとりあげます。『教育の社会学』(有斐閣アルマ、2010年)の参考文献からとりあげました。


【概要】


エミール・デュルケームは19世紀後半から20世紀初めにかけて活躍したフランス人の社会学者で、同時代人であるマックスウェーバーと並び、近代の社会学の根幹を作った人物です。


また彼自身の社会学・社会思想の根幹として教育を論じていることから、教育学の分野で頻繁に参照される人物となっています。


デュルケームの教育論を一言で言えば「教育とは、社会の道徳を子供に身につけさせることで、子供を自由にするものだ」という内容です。


前半と後半で矛盾しているような主張に見えないでしょうか?

その内実を以下に整理してみます。



1. 背景:19世紀フランスの社会状況

デュルケームの教育論を理解するには、その背景を押さえておかなければいけません。


デュルケームのキャリアは19世紀後半から20世紀初めにかけての期間にまたがっていますが、当時のフランスでは急激な資本主義の発展に伴い、社会が大きく変化していました。


まず、従来人々をつなぎ止めていたカトリック教会の宗教的な規範が弱まり、社会が世俗化していました。


また、それまで農村共同体の中で一生を終えていた人々が都市に労働者として流入したことで、農村的な伝統規範が薄れていました


加えて、資本主義の発展に伴う好況・不況の波が都市に暮らす労働者の生活に大きな影響を与えていました(資本主義が発展しなければ、好況・不況の波はそこまで大きくなりません)。



エミール・デュルケーム『教育と社会学』



2. 個人の解放の危険性:アノミー

社会の世俗化や農村共同体の弱体化により、一見人々の自由は増したように見えました。

教会や村長の権威から人々が解放されたからです。

権威から解放された人々は自らの欲望のおもむくままに行動ができます。


しかしこのように枷をはずされた欲望は非常に危険であるとデュルケームは見ます。

なぜなら欲望は増大の一途を辿り、自らの能力を超える地点まで膨らんでしまうからです。

好景気で一時的にお金を手にした人が、それまでは体験できなかった快楽を得ることを想像すれば理解がしやすいかと思います。

このように膨張した欲望は、不況などで一度充足されなくなると個人の中に不安を生み、その不安は社会全体に広がっていきます。犯罪率や自殺率が上昇し、社会秩序が乱れていきます。


このように規範の拘束力が弱まり、各個人がお互いにつながりを持たなくなると、個々人が不安を抱え社会全体が解体しかねない状況になります。

デュルケームはこの状況を「アノミー」と呼びます。


3. 教育の役割

なぜこのような中、デュルケームは教育を論じたのでしょうか。


それは、アノミー的状況を解決する可能性を教育に見出していたからでした。


当時、アノミー的な混乱を収拾するため、カトリック教会ナショナリストが社会の安定を説いていましたが、そのいずれも、偏狭で排他的な思想を有していました。カトリック教会は教会の権力を強めて人々の間に宗教的規範を取り戻すことを主張し、ナショナリストは国家への忠誠を人々の間に強める国家至上主義を主張していました。


この中でデュルケームは、上記のような偏狭で排他的な思想ではないかたちで社会の連帯を作ることはできないかと考え、その手段として教育を模索していきました。



エミール・デュルケーム(1858年4月15日 - 1917年11月15日)


4. 教育の定義

デュルケームによると教育とは

未成年者に対する方法的社会化」もしくは

未成年者に対する体系的社会化

です。


「社会化」とは、社会で通用している観念や生活様式を未成年者に身につけさせることです。「方法的」「体系的」という言葉は、社会化にむけて大人側が意識的・計画的に未成年者に働きかけることを意味します。


それまで教育とは極めて個人的なものとして考えられていて

子供の可能性を引き出すものである」とされていました。


しかしデュルケームはそのような個人視点の教育ではなく、社会視点の教育を正面切って論じました。


ではデュルケームによれば、社会はどのような観念を未成年者に身につけさせるべきなのか、というと、それは「道徳」であり、言い換えれば「自由」でした。


5. 道徳=自由=連帯

デュルケームは、道徳的に生きることで、自由に生きることができると考えました。

それゆえに道徳を未成年者に身につけさせることで、自由を手に入れさせることができると考えました。


しかし一般に道徳は「社会から押しつけられるもの」であり、「個人の自由」とは対立するように見えます。デュルケーム以前の教育論でもそれは常識でした。

デュルケームの中で一見すると矛盾するこの二つの観念はどう結び付けられているのでしょうか。


デュルケームは「自由とは、自己を支配することだ」と述べます。

アノミー的状況では、人々の欲望が際限なく増大し、社会は混乱に陥っています。

自らの欲望が充足されないと、不安に陥り、自由がなくなります。

そこでデュルケームは、放って置いたら増大し続ける自己の欲望を抑制して生きていくことが自由である、と考えます。

そしてこの自己に対する支配力のことを「道徳」と呼びます。


さらに、この道徳=自由が達成されると、アノミー的状態が解消され、

一人一人がバラバラに不安を抱える社会から、個々人が連帯する社会が実現するのだ、と言います。



とても長くなってしまうので、さらに具体的な内容まで立ち入ることはしませんが、

上記のような形で「道徳」=「自由」=「連帯」という等式がデュルケームの中にあったことがわかります。




【塾の文脈での読直し】


上記のようなデュルケームの教育論からは、何が得られるでしょうか。


それは、「子供の可能性を引き出す」ことを謳う教育改革や教育論を冷静に吟味する力だと思います。学校教育に付随する機関である学習塾では、学校での教育改革に対する立ち位置をしっかりと定めなければならないため、この力は必須だと思います。



現在の教育改革もそうですが、多くの教育論において「子供の可能性を引き出す」ということが謳われています。





「新時代の学びを支える先端技術活用推進方策(最終まとめ)」 文部科学省



もちろんこれは聞こえは良いですし、

子供を抑圧することは改められるべきでしょう。


しかし「子供の可能性を引き出す」ことが、

欲望の際限なき増大」を伴ってしまうと

社会が危険な状況になることを、デュルケームは教えてくれます。


もし子供への押し付けを警戒するあまり、

子供のやりたいことをさせすぎてしまう(=欲望を充足させてしまう)としたらどうでしょうか。我慢強くなく、自らの欲望をコントロールできない子供に育ってしまうかもしれません。そのような子供は、欲望が充足されなくなると、欲望を充足してくれない社会を恨み、社会性を失ってしまうかもしれません。

それは長期的には、アノミー的状況を招いてしまうかもしれません。



どのような形で子供の可能性を引き出すのか、吟味しなければいけません。





最後にちょっと話題がずれますが、ジャン・ジャック・ルソーについて。


デュルケームは、『エミール』で有名なルソーに大きな影響を受けています。


ルソーの主張は一般には、「社会による押し付けをなくし、子供の本来的な能力を引き出すべし」と理解されています。その意味でおそらくルソーは、教育改革の淵源となっているのだと考えられます。


しかし同時にルソーは、「社会」を嫌い、「自然」の重要性を強調します。そして、社会によって、人間の欲望が増大してしまっていることを強く批判しています。人間以外の動物は生きるということを超えた欲望を持ちませんが、人間は社会という人工物を作ることで、自らの欲望が無限に増殖させてしまっている、とルソーは考えます。



ジャン・ジャック・ルソー(1712年6月28日 - 1778年7月2日)


この認識はデュルケームとかなり通じるところがあるため、デュルケームがルソーに影響を受けているのは頷けます。


一般的なルソー理解では、欲望の無制限の増大という問題への処方箋として、「自然に還る」という方法を提示しますが、同じ問題への処方箋として、デュルケームはこれとは異なるアプローチを提示していると考えると面白いかもしれません。