総合編①〜30冊を記念して〜

こんにちは!Freewillトータルエデュケーションの井口です。


今回はタイトルにもあるように、「総合編①」となります。

文字通り、これまで読んできた書籍や、それらの書籍で学んだ考え方を、この機会に総合してまとめ直しておこうというところです。


これまでの記事では、教育思想史・教育社会学・教育心理学の各分野の著作をとりあげてきました。この度ちょうど各々の分野で10冊ずつの記事が完成しましたので、ここいらで立ち止まり、実践的に活かせるように情報をまとめ、さらに次なる一歩を踏み出すべくこれからの方向性を言語化しておこうと思っております。


と、いうことで、早速これまでの記事の振り返りをしてみたいと思います。

まず、これまで読んだ30冊(著者は28名)をテーマ別に分類してみます。当然1冊1冊(著者1人1人)が幅広い射程をもっているため、きれいな分類は無理なのですが、一応見通しがつくように分けてみました。


そのように分類した後に、それぞれのテーマに関して、コアとなる考え方を振り返り、実践的に活かす方法を考えます。


最後に、それぞれのテーマに関して、今後考え実践していきたいことを書いてみます。これらが今後の記事の中心的な主題になるのだと思います。


それでは一つ一ついきます。


テーマ分類

 

まずこれまでの30冊をテーマ別に分類してみます。ざっくり4分類です。


1. 教育の本質や目的について

 

これまで読んできた30冊の中で、教育という営みがそもそもどのような性質を持っているのか、もしくはどのような目的をもっているのかを述べた著作としては、以下のものがありました。


プラトン『メノン』『国家』

ジャン・ジャック・ルソー『エミール(上)』(1762)

ジョン・デューイ『経験と教育』(1938)

パウロ・フレイレ『被抑圧者たちの教育学』(1968)


2. 学校教育のあり方について

 

次に、①で見るような「教育」とは異なり、近代の学校制度の下での「学校教育」の本質を抉り出した著作としては、以下のものがありました。


エミール・デュルケム『教育と社会学』(1922)

フィリップ・アリエス『「教育」の誕生』(1948〜78)『子供の誕生』(1960)

ピエール・ブルデュー『再生産』(1970)

エヴァレット・ライマー『学校は死んでいる』(1971)

イヴァン・イリイチ『脱学校社会』(1971)

ミシェル・フーコー『監獄の誕生〜監視と処罰』(1975)

ポール・ウィリス『ハマータウンの野郎ども』(1977)

天野郁夫『教育と選抜の社会史』(1982)

苅谷剛彦『大衆教育社会のゆくえ』(1995)

竹内洋『日本のメリトクラシー:構造と心性』(1996)

ルイ・アルチュセール『再生産について』(1995)

バジル・バーンスタイン『<教育>の社会学理論』(1996)

ニクラス・ルーマン『社会の教育システム』(2002)


3. 子供の発達について

 

3つ目に、教育や学校教育が相手にする「子供」がいかに発達するかについて述べた著作としては、以下のものがありました。


レフ・セミョーノヴィチ・ヴィゴツキー『「発達の最近接領域」の理論』(1935)

アンリ・ワロン『身体・自我・社会』(1983)

竹内常一『子どもの自分くずしと自分つくり』(1987)

エリク・エリクソン『アイデンティティ』(1968)

アルバート・バンデューラ『人間行動の形成と自己制御』(1971)

ジーン・レイヴ&エティエンヌ・ウェンガー『状況に埋め込まれた学習』(1991)

ジャン・ピアジェ『新しい児童心理学』(1966)


4. 子供とのコミュニケーションについて

 

3. で見たような「子供」の発達を前提として、どのように「子供」とコミュニケーションを取るべきかについて述べた著作は以下のものがありました。


エリック・バーン『心理療法としての交流分析』(1961)

ジェローム・シーモア・ブルーナー『教育の過程』(1961)

アルフレッド・アドラー『子どもの教育』(1930)


これらが、これまで読んできた30冊の分類となります。


コアとなる考え方〜テーマ別整理〜

 

さて次に、分類してきたテーマのそれぞれについて、コアとなる考え方を振り返ってみます。全ての著作に細かく触れることはできないので、共通点を抽出してみることにします。


1. 教育の本質や目的について

 

上であげた著作から学べるのは、教育の目的や本質の一つの方向性です。

それは、


「人を何かの問題に直面させ、何にも依存させず、解決にむかってもがかせることで、自分の足で立って生きていく力をつけるべきだ」


という視点です。鍛錬主義的というか、自立主義的というか、そんな印象です。


例えばプラトンに描かれるソクラテスは、相手を不愉快にしてでも他人を「無知」に直面させ、他人を真理にむかってもがかせようとします。ルソーは社会や他人に依存する個人を、自然に直面させ、自然の中で鍛え上げていきます。フレイレは抑圧的な環境に取り込まれてしまっている(ある種依存している)農民たちに対し、現実を客観的に直面させることで解決への自立を促します。デューイは子どもたちに教育的な経験を与えることで、内的な欲望を抑制していくことを目指します。


いずれも、自分の足で生きていけるように、ある種厳しいことを他人に要求していることになります。


さてここで一つ興味深かったのは、自由の捉え方です。

いくつかの記事でも触れたことですが、

「子供の自由に任せる」というよくある教育論の大元とされるルソーやデューイの著作の中で、意外にも子供に対する鍛錬主義的な思想が見えるのです。「子供の自由に任せる」というのは、一見強制の排除を意味します。しかしルソーやデューイの中では「強制の排除」とは「子供が本当に向き合わなければいけないことに対峙するのを邪魔するものを排除すること」だと捉えられているように読めるのです。自由の裏面に鍛錬というかサバイバルがあるというか・・。「自由」という言葉に惑わされてはいけないのだと思わされます。


いずれにせよ、教育に携わる際に、「目の前の子どもを何に直面させたらよいのか」を考えることが大事なのかもしれません。教育に携わる人によって直面させるものは異なり、それは勉強かもしれないし、他人かもしれないし、自然かもしれないし、他人との勝ち負けかもしれません。そして直面させるために排除すべきこと(依存してしまうこと)は、短期的な欲望かもしれないし、デジタルデバイスかもしれないし、親かもしれないし、都市かもしれません。


このように、直面させるべきものと排除すべきもののセットで教育を考えるのは一つの方向性かもしれません。


2. 学校教育のあり方について

 

次に、こちらの点について、上で挙げた著作からわかることは、

「学校教育は必然的に(半ば自然の流れで)階級の再生産をもたらす硬直的な社会安定化制度であり、その制度は『教育』という営みを地域社会から取り上げ隔離することで成立する」ということです。


例えばブルデューやバーンスタイン、ウィリスやアルチュセールの著作からは、「再生産」の強固なメカニズムがよくわかります。つまり、学校教育によって支配階級の文化が子どもに伝達されることで、支配階級の子供は支配階級の大人になり、その大人がまた支配階級の子どもを大人にする、というメカニズムです。さらにフーコーの著作では、再生産のメカニズムがうまく隠蔽され、個々人が知らない間に社会における非対称的な権力関係を受け入れていくことが描かれます。


一方、デュルケムやルーマン、天野の著作を見ると。このような「再生産」は、実は産業社会に必然的に現れるメカニズムであり、ある種社会を安定化させる側面もあることがわかります。つまり、学校教育には両義的な側面があるということです。


そしてアリエスやイリイチ、ライマーの著作からは、このような両義的な側面を持つ学校教育を成り立たせているものは「教育を社会から隔離すること」だとわかります。家族が地域社会からプライベートなものとして隔離され、さらにその家族から学校が教育的役割を簒奪し、学校のみで学びが完結するように隔離空間を作り、加えて学校内でも学年別の隔離を行います。この隔離の中で文化の再生産が行われることになるのです。


このように示された学校教育の両義性に対してどう立ち向かっていくのかは人それぞれです。権力関係なんてどこにでもあるのだから、その中で生き残れるように生徒をサポートしたいと考える人もいます。また、そうはいっても再生産メカニズムの中で不利益を被る(例えば下層階級の)人を特にサポートしたいと考えるかもしれません。また、権力関係自体を打ち壊そうとして、学校教育という隔離空間に風穴を開けようとするかもしれません。


いずれにしても、学校のこの両義性の隔離性については、向き合い方を決めねばならないように感じます。


3. 子供の発達について

 

3つ目のこのテーマの著作からわかることは

「子供は他人をモデルにして発達をするため、子供のアイデンティティを理解するために明らかにすべきことは、子供を取り巻いてきた環境、他人のあり方、それらと子供がどのような関係を結んできたか、といった点である」ということです。


そもそもピアジェのいうように子供は自然な発達段階によって認知能力が異なります。これに対しヴィゴツキーは、教師という他人の存在によって発達を大人が(ある種自然に反して)引っ張っていけると考えます。ヴィゴツキーはその際に認知能力(頭の良さ)だけではなくに感情(心のあり方)も重視しますが、感情に関してより突っ込んだ議論はエリクソンにみられ、各段階での課題達成が次の段階でのアイデンティティを決めると言います。


加えて、エリクソンの提示する「課題」には他人が介在することが多いですが、(例:親や先生の評価をもらう勉強という課題を達成するかどうか)、発達における他人の重要性については、ワロンや竹内常一、バンデューラの著作はもっと振り切れています。つまりこれらの著作では、他人をどのように自己の中に取り込み発達していくかが詳細に描かれます。


さらにレイヴ&ウェンガーの著作では、子供と大人の関係が1:1のものではなく、1:多に広げられています。つまりある共同体で子供がたくさんの大人をモデルとして、知識だけではなく感情面も(生き方や振る舞い含め)共同体に溶け込んでいく過程を、子供の発達と捉えているのです。


このような認識、すなわち「目の前の子供には歴史があり、これまで出会ってきた他人との関係性によって現在のアイデンティティがある」といった認識は、日々の指導では欠かせないものです。


どんな他人出会ってどんな経験をして今に至っているのか、

それを知らなければ、今自分がどのような他人として子供の前に立つべきなのかが定まりません。


4. 子供とのコミュニケーションについて

 

最後に、このテーマについての著作からは、

「子供の言動について表面ではなく、奥に潜む目的をとらえ、認識的にも感情的にも前をむいて歩んでいけるように声かけをするべきだ」

ということがわかります。


例えば人間を統一した存在だと考えるアドラーは、子供の言動には優越性の追求という一貫した目的があり、そこに真っ直ぐ向かわせるために勇気づけが必要だと説きました(逆にいうと勇気がないと子供は歪んだ形でコンプレックスを抱きます)。他方バーンはアドラーが懸念したような歪んだコンプレックスの状況を自我状態という概念から明快に説明し、歪んだコミュニケーションのあり方を示しました。


こういった人間の自我状態の認識に基づかなければ、子供たちが自らの現実に真っ直ぐ直面し、立ち向かっていけるようにするための支援は成り立たないかもしれません。



今後にむけて〜テーマ別の実践・深化〜

 

1. 教育の本質や目的について

 

これまで読んできた本を読んだ結果、今とくに気になっているのは、教育に携わる人間としてはおかしいのかもしれませんが、「なぜ人間は教育をここまで面倒にしてしまったんだろう?」という疑問です。


というのも動物ならサバイバルの現実に直面し、狩り仕方や巣の作り方を知るだけなのに、人間はそれ以外もたくさん教え、たくさんか関わり、とても教育が面倒だからです。これは抽象的には、人間(文化)と動物(自然)の関係についての疑問になると思います。


30冊の中で、実はルソーが一番気になったのですが、ちょうど良いことに、ルソーは人間と自然の関係について考え抜いた思想家でもあるので、ルソーを深めていくとよいのかも、と思っています。



2. 学校教育のあり方について

 

この点についてより知りたいのは、日本における再生産の現実です。

理論的には再生産についてある程度理解している気はしますし、経験的にも当てはまる事例が多い印象です。しかしまだこの知識・経験が血肉化していないように感じます。


そこでより具体的なデータを他の研究から集めてみたり、現場でのあらためて再生産を意識した見方・接し方をしてみたりと、明確に再生産の視点で教育に関わっていきたいと思います。


加えて、それが日本という特殊な環境の下でどのような姿を見せているのかも興味があります。苅谷や竹内洋、天野の著作では日本の特殊性が述べられていたので、日本の学校教育についてより詳しく知ると見えてくるものがあるかもしれません。


その延長線上でもう一つ。現行の教育に対するオルタナティブを考える際に「教育の地域社会からの隔離」というポイントをあげました。来年以降オルタナティブ教育を弊社としても本格的に考えていく予定ですが、このポイントを意識して企画作りを進めたいと思います。


最後に・・「教育における利他性は権力だ」と喝破したフーコーはいつも頭にあるので、他の著作を読み進めます。


3. 子供の発達について

 

このテーマに関連して読んできた著作の多くは、精神分析や交流分析に関するものでした。しかしこれらは心理学・心理療法のあくまで一分野にすぎません。逆にいうと、心理学・心理療法の他の分野についてはあまり知りません。そこで、今回読んできた著作と、他の分野を突き合わせることで、現在の認識の誤りや弱点に気づけるかもしれません。


4. 子供とのコミュニケーションについて

 

最後のこのテーマが一番実践的だと思います。

具体的には、

(1)デノテーション(口で言っていること)とコノテーション(真意)を区別する

(2)(テーマ③とも関連しますが)そのために、子供の歴史を知る

といったことを追求する必要があると思っています。


(1)については現場での仮説・検証を繰り返し、他の人も理解ができるような会話実践例を作ってみるとよいのかな、と思っています。

(2)についても現場での実践に基づきますが、「子供についてこの情報は知っておいた方がよい」というヒアリングリスト的なものを作れるとわかりやすいのかな、とおもっています。




さてこの連載を始めて早くも1年と7ヶ月が過ぎました。

平日に現場で働き土日に記事を書くという生活の中で、

理論と実践を行き来していき、どちらも少しだけ深みが増したように思えます。


次はここで決めた方向性を突き進みながら、

また子供たちとの新しい関わり方を見つけられたらよいなとおもっています。